洞昌院。伊勢原市上粕屋にある曹洞宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

洞昌院。太田道灌開基、太田道灌墓所

洞昌院の概要

曹洞宗寺院の洞昌院は、蟠龍山公所寺と号します。洞昌院は、太田左衛門大夫持資入道道灌(法名洞昌院心圓道灌、文明18年卒)を開基として、崇旭(長禄二年卒)が開山となり、創建したといいます。天正19年寺領3石の御朱印状を受領、近隣に多くの末寺を擁する中本寺格の寺院だったといいます。太田道灌は、軍学の大家で、江戸城・川越城・岩槻城を築城したことでも有名です。

洞昌院
洞昌院の概要
山号 蟠龍山
院号 洞昌院
寺号 公所寺
本尊 阿弥陀如来立像
住所 伊勢原市上粕屋1160
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



洞昌院の縁起

洞昌院は、太田左衛門大夫持資入道道灌(法名洞昌院心圓道灌、文明18年卒)を開基として、崇旭(長禄二年卒)が開山となり、創建したといいます。天正19年寺領3石の御朱印状を受領、近隣に多くの末寺を擁する中本寺格の寺院だったといいます。太田道灌は、軍学の大家で、江戸城・川越城・岩槻城を築城したことでも有名です。

新編相模国風土記稿による洞昌院の縁起

(上糟屋村)洞昌院
蟠龍山公所寺、公所は寺邊の字なり、と號す。津久井縣根小屋村功雲寺末、開山崇旭、長禄二年三月十五日卒、中興陽室照寅、天文八年七月二日卒、開基は太田左衛門大夫持資入道道灌、文明十八年七月二十六日卒、法名洞昌院心圓道灌、なり。釈迦を本尊とす。寺領三石の御朱印は、天正十九年賜りしが、寛永六年九月九日、火災に罹り、烏有せしを以て、十九年再び賜ふ、岡田淡路守重治推挙す。撞鐘、寛永六年の銘あり、を本堂の廊下に掛。
寺寳
鏡三面。太田道灌所有の物と云、三面共に八角にて至て薄し、裏の図左の如し。
鐘楼。延宝六年の鋳鐘を掛。
開山堂。衆寮。稲荷社。白山・金毘羅・秋葉・毘沙門・不動合社。
塔頭。
龍光寺。依法山と號す、本坊二世目堂韶存開山す、本尊勢至。
正覚寺。世尊山と號す、開山上に同、本尊地蔵。今廃す。
太田道灌墓。五輪塔、高三尺五寸許、傍に古松二株、一は囲一丈六尺、一は一丈、あり。按ずるに、石塔の様當時の物にあらず、後世建し物と見ゆ、下村浅間社別當大慈寺にも、道灌の墳墓あれど、當院に埋葬せし事其證、寛永系譜其文下に註す、あり、道灌は太田備中守資清の子にして、左衛門大夫持資、初資長、と稱す。長禄元年、武州江戸、及川越岩槻の三城を築く。「寛永譜」曰、資長、源六郎左衛門大夫、剃髪して道灌と號す、歌人、相州の人なり、長禄元年、千代田・斎田・寳田三氏の家臣に命じて、城郭を江戸・川越・岩槻に築く、道灌軍法に精きを以て、世に師範と稱せられ、屢軍功あり。曰、道灌常に古今諸家の兵書を読て、軍法の道に達し、能く城郭の地を知る、此故に世に軍法の師範と稱す、若年の時より、数度軍功あり。扇谷上杉修理大夫定正に属して用いらる、故に関東の諸家大に服し、関西の諸将も、其風を慕ふ者あり。又和歌を好む。曰、道灌もとより扇谷修理大夫定正が招に應じて、関東八州を以て是を指揮す、定正深く是に任じて、萬大小となく、道灌に問きく、是に依て関東の諸家、心を道灌に寄せずと云者なし、関西の諸大将も其風を聞き従ふ者又多し、道灌父が風俗を慕ひて、和歌を好む、加之諸子百家の史傳、并に本朝二十一代集等の書籍を集め貯て、平生のもてあそびとす、其詠ずる所の家の集十一巻、其類を分て、砕玉類題と號す、按ずるに、今道灌の家集と云は、「慕景集」と名づけ、僅に一巻あり、残闕なるか。寛正文明の間、両度上洛し、将軍義政に謁す。其時勅問の事あり、和歌を詠じて勅答す。「寛永譜」曰、寛正文明の間、両度上洛して、源義政公に謁す、時に勅問あり、屢和歌を詠じて勅答となす、太田家譜曰、勅使来于東山殿、被問武蔵野廣原、即詠和歌勅使、其歌曰、露置かぬ方もありけり夕立の、空より廣き武蔵野の原、又勅使来被問武州の風景、即席詠和歌献勅使、述平昔之遊覧、其歌曰、我庵は松原つづき海近く、富士の高根を軒端にぞ見る、此時叡感不少、賜御製、武蔵野はかる萱のみと思ひしに、かかる言葉の花や咲らん。按ずるに「慕景集」に嘉吉元年五月、上洛の事見えたり、今道灌の卒年を以て是を推に、十歳の時に當れり、家集は書写の誤なるか、覚束なし。
文明十八年七月、讒言に依って、當所定正の館、館蹟の事下條にあり、にして誅せられ、當院に葬す。「寛永譜」曰、七月廿六日、相州糟屋定正が館に入て卒す、五十五歳、秋山上糟屋洞昌院に荼毘す、「小田原記」曰、七月廿六日、扇谷殿定正相州糟屋へ御馬を被立、道灌を対治し給ふ、去程に道灌入道打て出たりしを、鎗にて突落し、首を取らんとしければ、道灌鎗の柄に取付て、かかる時さこそ命の惜からめ、兼てなき身と思ひしらずは、唯忠のみ有ながら、道灌一朝に讒言せられて、百年の命を失ふ、云々、按ずるに此歌は康正元年冬、藤澤の役に、道灌敵の首級に手向し歌なり、「慕景集」に見ゆ。(以下中略)(新編相模国風土記稿より)


洞昌院所蔵の文化財

  • 太田道灌墓所

太田道灌

太田道灌(一四三二ー一四八六)は幼名を鶴千代といい、成人してからは資長または持資といった。また仏門に帰依してからは、道灌と号した。道灌が生れた頃、父資清は相模の粕屋に本拠をおいていたので、道灌は現在の伊勢原市内で生まれたと思われる。幼い頃から非常に利発で、神童といわれていた。当時の日本は戦国時代で、各地の武将の間に戦が絶えなかった。
道灌は二十五歳の時(一四五七)武蔵野の原に、海に臨んで城と町とを築いた。後に、この城は江戸城といい、徳川幕府三百年の居城となった。これにより道灌は、いまでも東京の基礎を築いた人として、その名が高い。
道灌は築城軍略の大家であるばかりでなく、詩歌を好み、風流を愛する文武兼備の人であった。上洛の折、時の天皇の勅問に和歌をもって答えた逸話や、山吹の説話など有名な話も多い。
晩年、道灌は京都の足利幕府と関東の公方とが、互に協力して政治を行わなければ、平和は望めないと考え、力を尽くした。しかし、主君の上杉貞正は、己の権力の増大のみを求めていたため、道灌は怒りにふれ、志半にして粕屋の上杉館で謀殺された。時に五十四歳であった。
道灌の墓のあるここ洞昌院は、道灌が関東管領上杉憲実の弟道悦和尚のため建てた寺と、伝えられている。現在伊勢原市では、毎年十月の第一土・日曜日に観光道灌祭を行って、道灌の遺業を偲んでいる。(伊勢原ライオンズクラブ掲示より)


洞昌院の周辺図