大山寺。伊勢原市大山にある真言宗大覚寺派寺院、大山不動尊
大山寺の概要
真言宗大覚寺派寺院の大山寺は、雨降山と号します。大山寺は、奈良東大寺の別当良弁僧正が天平勝宝7年(755)創建、聖武天皇より勅願寺の宣旨を賜ったといいます。華厳・真言・天台宗の修験道場として僧坊十八ヶ院、末寺三、御師三百坊を擁し、また大衆からも大山不動参りとして数多の崇敬を集めたといいますが、明治維新の神仏分離により、現在大山阿夫利神社下社のある地より、当地に移転して再建したといいます。関東三大不動の一つに数えられるほか、関東三十六不動霊場初番霊場、関東八十八ヶ所霊場60番、真言宗大覚寺派の準大本山となっています。
山号 | 雨降山 |
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院号 | - |
寺号 | 大山寺 |
本尊 | 鉄造不動明王像 |
住所 | 伊勢原市大山724 |
宗派 | 真言宗大覚寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 真言宗大覚寺派の準大本山 |
大山寺の縁起
大山寺は、奈良東大寺の別当良弁僧正が天平勝宝7年(755)創建、聖武天皇より勅願寺の宣旨を賜ったといいます。華厳・真言・天台宗の修験道場として僧坊十八ヶ院、末寺三、御師三百坊を擁し、また大衆からも大山不動参りとして数多の崇敬を集めたといいますが、明治維新の神仏分離により、現在大山阿夫利神社下社のある地より、当地に移転して再建したといいます。
境内掲示による大山寺の縁起
昔から「大山不動さん」と呼ばれた大山寺は、山号を雨降山といい、天平勝宝七年(七五五)奈良東大寺の別当良弁僧正が父母の孝養のために建てたといわれる。赤子の時、大鷲にさらわれた良弁を捜して、日本国中を尋ね廻った父母が、盲目の乞食になり果てていたのを、不動明王のみちびきで、親子の再会が出来たと、大山寺縁起絵巻に書かれている。
良弁に帰依深かった聖武天皇は、良弁親子の再会に強く感動され、大山寺を勅願寺とされた。寺はその後いくたびか災厄にあったが、鎌倉・足利・徳川幕府の保護をうけ、その都度再建された。
本尊不動明王・矜迦羅童子・制吒迦童子の三体は、珍らしい鉄像で、鎌倉時代(一二七〇年頃)大山寺中興の祖、願行上人作と伝えられ、国の重要文化財である。他に平安前期(七八二ー八九七)の木造不動像をはじめ多くの仏像がある。
この寺はかつて、日本古来の予言者から発展した山岳宗教の「修験道」の道場で、大山不動信仰を世に広めたのは、この修験者たちであった。今でもその象徴である天狗の面が土産店で売られている。
庶民が期待する大山不動尊信仰の特別の冥加は、農・漁・商・工・職人・技芸人等多くの人々間で、その子供達が親の職業を立派に引き継ぎ栄えるよう、加護をうけることであった。(境内掲示より)
大山寺所蔵の文化財
- 鉄造不動明王及二童子像(国指定重要文化財)
- 木造不動明王座像(県指定重要文化財)
鉄造不動明王及二童子像
大山寺の本尊で、不動明王像を中心に、向かってに矜羯羅童子像、左に制吒迦童子像を両脇侍像とする三尊像である。不動明王像は、髪を総髪にして左肩に弁髪を垂らし、右手に宝剣、左手に羂索を持って座り、顔は両眼を見開き、上の歯で下唇を噛んで、忿怒の相をしている。像高、九七・七センチメートル。
両脇侍の童子は、矜羯羅童子像が左手に蓮の華、右手に独鈷を持ち、制吒迦童子像が左手で肩布を握り、右手に宝棒を持って立っている。像高、矜羯羅童子像九六・〇センチメートル、制吒迦童子像九五・四センチメートル。
三尊像とも、強く張った頬や量感溢れて力強い体躯を持つ、鎌倉時代中期の作である。鉄で鋳られている「鉄仏」は、主として東国で鎌倉時代以降に造立されるようになるが、この三尊像は、日本の「鉄仏」の中でも最も大きく、最もすぐれた作例である。現在、本堂奥の奉安殿に安置されている。(伊勢原市教育委員会掲示より)
木造不動明王座像
本堂向かって左の護摩壇の本尊として安置されている。五大明王像の中尊像である。寄木造り、彫眼、本来は彩色されていたと思われる。髪や持物、顔の表情などの姿は、大山寺の本尊、鉄造不動明王像と同様である。丸みのある頬は忿怒の相にしては穏やかであり、柔らかな衣の襞の表現とともに、この像が平安時代後期の作であることを示している。県内では数少ない平安時代の不動明王像である。像高、四九・六センチメートル。(伊勢原市教育委員会掲示より)
大山寺の周辺図