白旗神社。もと源頼朝の持仏堂、源頼朝墓
白旗神社の概要
白旗神社は、鎌倉市西御門にある神社です。白旗神社は、もと源頼朝の持仏堂で、頼朝死後法華堂として「相承院」が管理していましたが、明治維新後白旗神社と改められたといいます。
社号 | 白旗神社 |
---|---|
祭神 | 源頼朝公 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 1月13日 |
住所 | 鎌倉市西御門2-1-24 |
備考 | 源頼朝墓 |
白旗神社の由緒
白旗神社は、もと源頼朝の持仏堂で、頼朝死後法華堂として「相承院」が管理していましたが、明治維新後白旗神社と改められたといいます。
境内掲示による白旗神社の由緒
この地はもと源頼朝公居館(幕府)の北隅で持仏堂があり、石橋山の合戦にあたって髪の中に納めて戦ったという小さな観音像が安置され頼朝公が篤く信仰していた。
正治元年(一一九九)一月十三日頼朝公が亡くなるとここに葬り法華堂と呼ばれ毎年命日には将軍が参詣し仏事を執り行い多くの武将も参列した。
その後鶴岡八幡宮の供僧「相承院」が奉仕して祭祀を続け、明治維新に際し寺は白旗神社に改められ源頼朝公を祭神として今日に至っている。
現在の社殿は明治維新百年を記念して昭和四十五年に源頼朝公報恩会の方々の篤志によって造営されたものである。(境内掲示より)
神奈川県神社誌による白旗神社の由緒
この地に源頼朝公の墓所を守る法華寺があが、その霊を祀っていたが、明治初年の神仏分離令施行に伴い法華堂は撤去され、明治五年十月白旗神社が建立され、頼朝公の神霊を奉斎したのが始めである。
法華堂は頼朝公生前の持仏堂で、その創建は頼朝公奥州入りの文治五年(一一八九)八月八日、専光坊により立柱式が執り行われた事が『吾妻鏡』に見える。頼朝公の死後はその墓堂となり、本尊に正観音像(髻観音)が安置されていた。鎌倉幕府は鶴岡八幡宮、勝長寿院(源氏の氏寺)と共に三大寺として尊崇した。足利時代以降衰微し、江戸時代には鶴岡供僧相承院が兼務し、明治に入りて前述の如き当社の濫觴に至る。
然しながら頼朝公を白旗大明神として祀ったのは相当古く、応安六年(一三七三)十一月十五日西御門の報恩寺(廃寺)境内に洞が祀られていたと記録にある。
明治に建立された当社は、その後関東大震災による修覆があり、昭和四十五年には頼朝公報恩会の発願により現在の如き結構をみた。元無格社で雪ノ下区の氏神社であり、石段上には鎌倉石の多層塔に改められた頼朝公の墓があり参詣者も多い。(神奈川県神社誌より)
白旗神社所蔵の文化財
- 源頼朝墓(国指定史跡)
源頼朝公の墓(鎌倉市掲示より)
源頼朝公の墓
源頼朝は、治承四年(1180)平家打倒のため挙兵、鎌倉を本拠として元暦二年(1185)に平家を滅ぼしました。また、鎌倉幕府を大蔵(現在の雪ノ下三丁目付近)に開いて武家政治の基礎を築きました。
正治元年(1199)に五十三歳で没すると、自身の持仏堂であった法華堂に葬られ、法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰されました。法華堂は後に廃絶しましたが、この丘の上一帯がその跡です。
現在建っている塔は、後に島津藩主・島津重豪が整備したものとされます。(鎌倉市掲示より)
源頼朝墓(神奈川県教育委員会掲示より)
源頼朝墓
源頼朝は義朝の嫡子で、平治の乱の後伊豆韮山に流されていた、治承四年(一一八〇)北条時政の応援を得て、平氏追討の兵を挙げたが、石橋山の合戦に敗れ海路安房にのがれた。しかし関東各地の家人の支持を得て鎌倉に入り、寿永三年(一一八五)平氏一門を滅亡し、ついで奥州の藤原氏を滅ぼして、全国を平定するにいたった。
頼朝は源氏のご家人武士を統制するため侍所、ついで公文所などをおき、幕府の組織をととのえ、右近衛大将となり、さらに征夷大将軍に任ぜられて、幕府を開いた。正治元年(一一九九)五十三才で亡くなった。墓の下方の平地は当時の幕府跡である。(神奈川県教育委員会掲示より)
白旗神社の周辺図