和賀江島|鎌倉市材木座の名所旧跡

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和賀江島|日本に現存する最古の築港遺跡

和賀江島の概要

和賀江島は、鎌倉市にある名所旧跡です。和賀江島は、鎌倉の海岸が遠浅で荷揚げに難渋したことから、貞永元年(1232)勧進僧の往阿弥陀仏が築港を提案、鎌倉幕府の援助を受けて1ヶ月ほどで竣工させた、日本に現存する最古の築港遺跡です。相模川や酒匂川、伊豆半島から運搬された石材で築造され、江戸時代までは使用されてきたものの、潮流や津波などにより損壊、現在は干潮時に島状石積みを確認できるそうです。

和賀江島
和賀江島の概要
名称 和賀江島
区分 国指定史跡
入場時間 -
入場料 -
住所 鎌倉市材木座6-23-9
備考 -




和賀江島の由緒

和賀江島は、鎌倉の海岸が遠浅で荷揚げに難渋したことから、貞永元年(1232)勧進僧の往阿弥陀仏が築港を提案、鎌倉幕府の援助を受けて1ヶ月ほどで竣工させた、日本に現存する最古の築港遺跡です。相模川や酒匂川、伊豆半島から運搬された石材で築造され、江戸時代までは使用されてきたものの、潮流や津波などにより損壊、現在は干潮時に島状石積みを確認できるそうです。

境内石碑による和賀江島について

和賀江嶋は、日本に現存する最古の築港遺跡です。
このあたりは、遠浅で荷の上げおろしが難しく、大風や波浪で難破する船が多くあったことから、貞永元年(1232)勧進僧の往阿弥陀仏が港を造ることを幕府に求め、第3代執権北条泰時の援助を受けて完成したことが『吾妻鏡』に記されています。
その際、石材は相模川や酒匂川、伊豆半島海岸など遠くから運ばれてきたと考えられています。この付近は和賀江津と呼ばれ、中世都市鎌倉の海の玄関口として、海上交通や物流の拠点となっていました。
江戸時代までは修復されながら利用されていましたが、潮の流れや災害などで石が散乱しており、築造時の姿はわかっていません。現在も普段は海没していますが、干潮時には正面に島状石積みが姿を現します。(鎌倉市教育委員会掲示より)

新編相模国風土記稿による和賀江島について

(材木座村)
和賀江島
飯島崎ともいへり、飯島の西の出崎にて屡潮汐に崩壊して今海際纔に亂礁を存せり、貞永元年勧進比丘、往阿彌陀佛が申請に任せ舟船着岸の煩無らしめん爲築島の事を令す、平三郎左衛門尉盛綱其事を督し、是年八月其功を終ふ(【東鑑】曰貞永元年七月十二日、勧進聖人、往阿彌陀佛就申請爲無舟船着岸煩、可築和賀江島之由云々、武州殊御勸喜、令合力給、諸人又助成云々、十五日今日築初和賀江島、平三郎左衛門尉盛綱行向、八月九日和賀江島終其功、仍尾藤左近入道、平三郎左衛門尉、諏訪兵衛尉、爲御使巡、検云々、)
建長四年正月海水赤色に變せし事あり(建長四年正月廿七日未剋、海濱波濤色如紅、就中自由此浦、至和賀江島如此)
是年二月水色又血の如く晩に及て消滅すと云ふ
(二月廿八日申剋、自腰越海上、至和賀江津、而池之水如血、廣三丈許、及晩消滅畢)
親行が紀行に海上眺望の詠歌あり
(【東關紀行】曰、和賀江築島、三浦の三崎などいふ、浦々に行て見れば、海上の眺望、哀を催して、来し方に名高く、面白かりし所々にも劣らず覺ゆ、寂しさは過こし方の浦々も、ひとつ詠の中の釣舟、)、(新編相模国風土記稿より)

「逗子町誌」による和賀江島について

飯島
和賀江島
(鎌倉誌)和賀江島は飯島の西の出崎を云ふなり。東鑑に貞永元年七月十二日勧進の聖人往阿彌陀佛申し請に就て。舟船著岸の煩ひ無らしめんが爲に、和賀江の島を築べきの由、同八月九日其の功を終とあり、今は里人飯島崎と云ふ。元飯島と同處なり。(「逗子町誌」より)


和賀江島の周辺図