妙隆寺。鍋かむり日親・なべかむり日親、鎌倉・江の島七福神の寿老人
妙隆寺の概要
日蓮宗寺院の妙隆寺は、叡昌山と号します。千葉胤貞が祖先追福のため、氏寺である中山法華経寺の日英上人を開山として、至徳2年(1385)千葉氏屋敷地内であった当地に創建したといいます。当寺二世の日親上人は激しい修行をしたと伝えられ、修行を行った池が残されているほか、室町幕府将軍足利義教諌めたことから拷問を受け、焼けた鍋を頭に被せられたことから「鍋かむり日親」として広く知られています。鎌倉・江の島七福神の寿老人です。
山号 | 叡昌山 |
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院号 | - |
寺号 | 妙隆寺 |
本尊 | 釈迦三尊 |
住所 | 鎌倉市小町2-17-20 |
宗派 | 日蓮宗 |
縁日 | - |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 鎌倉・江の島七福神の寿老人 |
妙隆寺の縁起
妙隆寺は、千葉胤貞が祖先追福のため、氏寺である中山法華経寺の日英上人を開山として、至徳2年(1385)千葉氏屋敷地内であった当地に創建したといいます。当寺二世の日親上人は激しい修行をしたと伝えられ、修行を行った池が残されているほか、室町幕府将軍足利義教諌めたことから拷問を受け、焼けた鍋を頭に被せられたことから「鍋かむり日親」として広く知られています。
新編相模国風土記稿による妙隆寺の縁起
妙隆寺
叡昌山と号す。宗旨前寺[本覚寺]に同じ[法華宗]、中山法華経寺末。千葉氏の起立にて開山は日英なり。二世日親は鍋被上人と異名して宗門に隠なき僧なる由、鎌倉志に見えたり。
寺宝
曼陀羅三幅、日親上人筆。
同一幅、本寺(中山法華経寺)三世日祐筆。
日蓮像一体、日祐作。
法華三部一函、筆者を傳へず、紺紙金泥なり。法華経、無量寿経、普賢親経等なり。
池、寺後にあり、行ノ池と呼べり。日親一日に一指づつ十指の爪をはなし、此爪百日の間に癒なば所願成就すべしと誓ひ、出る血を此池にて洗ひ其水を以て曼陀羅を書す。是を爪切の曼陀羅とて此寺に在しを法理の異論に依って住持退院の時持去しと云ふ。(新編相模国風土記稿より)
鎌倉市掲示による妙隆寺の縁起
この辺り一帯は、鎌倉時代の有力御家人・千葉氏の屋敷跡と言われ、この寺は一族の千葉胤貞が日英上人を迎えて建立しました。
第二祖の日親上人は、宗祖・日蓮上人にならい「立正治国論」で室町幕府六代将軍・足利義教の悪政を戒めましたが、弾圧され、数々の拷問を受けました。ついには焼けた鍋を被せられたので「鍋かむり日親」とよばれました。
本堂前右手の池は、日親上人が寒中、百日間水行をした池とされ、厳しい修行の跡と言われています。(鎌倉市掲示より)
妙隆寺掲示による妙隆寺・寿老人について
鎌倉・江の島七福神
寿老人 妙隆寺
当山は、源頼朝の御家人・千葉常胤の子孫千葉大隅守平胤貞の旧地で至徳2年(1385)七堂伽藍を建立し、妙親院日英上人を迎えて開山しました。応永34年(1427)の冬第二祖久遠成院日親上人は21歳の時に当山に来られ堂前の池で寒百日間、水行などの修行にはげみ、永享11年(1439)京都へ上り「立正冶国論」の一書を足利六代将軍義教に献して政道を諌めようとしましたが、これを怒った義教は日親を投獄し、陰惨な拷問でも屈しない日親の頭に灼熱の鍋をかぶせ舌端を切らせ日親の言葉を奪ってしまいました。後年「なべかむり日親」と呼ばれるように成りました。世の為、人の為ならばいかなる苦難にも屈しない日親上人ゆかりの妙隆寺には、欅の一本造りの寿老人の尊像が安置されています。人々の安全・健康を守り長寿と司る福神です。
お供の鹿はその使いで、三千年の長寿を象徴しているのです。(妙隆寺掲示より)
妙隆寺所蔵の文化財
- 木造日蓮聖人坐像(鎌倉市指定文化財)
- 木造釈迦如来像
- 日祐・日英・日親の曼陀羅本尊
- 寿老人像
妙隆寺の周辺図