安國論寺。鎌倉市大町にある日蓮宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

妙法華経山安國論寺。立正安国論を執筆した松葉ヶ谷御小庵地

安國論寺の概要

日蓮宗寺院の安國論寺は、妙法華経山と号します。安國論寺は、布教のために建長5年(1253)安房から鎌倉に入った日蓮聖人が、最初に小庵(松葉ヶ谷御小庵)を結び、他宗僧に小庵を焼き討ちされた地とされ、建長5年(1253)を創建とします。日蓮聖人は御岩屋で立正安国論を執筆したことから、安国寺、安国論窟寺とも称され、現在は安国論寺と号しています。

安國論寺
安國論寺の概要
山号 妙法華経山
院号 -
寺号 安國論寺
本尊 -
住所 鎌倉市大町4-4-18
宗派 日蓮宗
縁日 -
葬儀・墓地 -
備考 -



安國論寺の縁起

安國論寺は、布教のために建長5年(1253)安房から鎌倉に入った日蓮聖人が、最初に小庵(松葉ヶ谷御小庵)を結び、他宗僧に小庵を焼き討ちされた地とされ、建長5年(1253)を創建とします。日蓮聖人は御岩屋で立正安国論を執筆したことから、安国寺、安国論窟寺とも称され、現在は安国論寺と号しています。

鎌倉市掲示による安國論寺の縁起

当山は日蓮聖人松葉ヶ谷御小庵の霊跡です。御小庵の元となった岩窟(「御法窟」または「日蓮岩屋」という)が本堂の向かいにあります。この御法窟で日本国の安泰と人々の幸せを願って文応元年(一二六〇)七月十六日、前執権北條時頼に建白した『立正安国論』が執筆されました。
翌八月二十七日に立正安国論に反感をもつ人々に庵が襲われました。これは『松葉ヶ谷の法難』といわれています。本堂の裏山に一時避難した『南面窟』があります。
境内は四季折々の花や紅葉で彩られています。なかでも御小庵の傍の山桜は、日蓮聖人の桜の杖が根づいたといわれ、「妙法桜」と呼ばれています。サザンカやカイドウと共に鎌倉市の天然記念物に指定されています。(鎌倉市掲示より)

安國論寺栞による安國論寺の縁起

このお寺は、山号を妙法華経山、寺号を安国論寺といいます。昔は御岩屋にちなんで安国論窟寺ともいいました。境内一円は松葉ヶ谷ですので、一般に、松葉ヶ谷霊跡、安国論寺といいます。日蓮聖人は、建長五年(一二五三)四月二十八日、今の千葉県清澄山上で立教開宗をなされましたが、時の政治の中心である鎌倉は、名越松葉ヶ谷の岩屋に庵を結ばれ、御布教なされました。それが、現在本堂の向かい側にある御小庵と、その奥に連なる御法窟(御岩屋)です。三十二歳から四十歳代の凡そ二十年間に亙って、当地に滞在し釈尊に代って衆生を救うために、法華経とお題目とその宗教的信念を宣教されました。
文応元年(一二六〇)三十九歳のお歳には、この御岩屋でかの有名な”立正安国論”を書かれ同年七月十六日、前執権北條時頼に建白されました。そのために、翌月八月二十七日に大難は四度、小難は数々と言われた諸法難にあっております。今も裏山に一時避難された南面窟が残っております。(安國論寺栞より)

新編相模国風土記稿による安國論寺の縁起

(大町村)安國寺
松葉谷にあり、妙法山と號す(前寺末:妙本寺末)、寺傳に據るに建長五年日蓮房州小湊より當所に移住し僅に小菴を營み、茲に肇て法華經の首題を唱し舊蹟なりと云ふ(今北の山中に舊蹟あり、又妙法・長勝二寺にも菴蹟の傳あり、何れか詳ならず、此に合考すべし)又門内右方に巖窟あり、茲に籠て安國論を編述せしと云へり、弘長元年豆州伊東に謫せられ、同三年赦免ありて再爰に還住しけるが、文永八年又囚れとなりて當所を去る
(【註畫讃】曰、建長五年爲諫國主、速自房州移于鎌倉名越松葉谷、栖小菴破諸宗謗法、立三大秘法、毎日入名越山中、高聲唱妙法首題云々、重而到駿州入大蔵、勘諸經論、指掌知之、記立正安國論一巻、正喜元年始之、文應元年庚申勘畢三十九歳、同年七月十六日、屬鎌倉奉行宿谷左衛門入道、呈于副元帥平時賴云々、其後經數日、諸宗數百人、寄来草庵、欲爲夜討、元祖破多勢中、遁其夜害、始於弟子能登公並檀那進士太郎、被庇者多云々、弘長元年五月十二日四十歳、謫于豆州伊東浦、三年五月二十二日、赦免状来、歸倉後彌破諸宗、倍値大難、文永八年辛未九月十二日、爲副元帥平時宗之使者、賴綱以下數百人武士等、来名越小菴搦取聖人云々)
後宗門開闢の舊蹤たる故をもて同十一年起立して一寺となせしとなり、門に安國論法窟の四字を扁す
(佐文山書、【鎌倉志】には、門の額、安國論窟大永元年已歳十月十三日、幽賢書とありと載す、さては貞享の初迄は、大永の古額を掲しを、元禄中に、今の額に改しならん、)
本尊は釋迦を安置ぜり、
【寺寶】立証安國論一巻(紺紙金泥日朗筆、)、安國論縁起一巻、同縁起の圖一幅
祖師堂。御影像と唱ふ、宗祖の像(日朗作)並に大黒七面(共に日蓮の開眼と云ふ)及び日朗(自作)進士太郎等の像を置く、(寺傳新地太郎に作るは非なり、【註畫讃】に檀那進士太郎と見えたる是なり、是は熊王の作と傳ふ、是も【註畫讃】に四條三郎左衛門尉賴許許、遺童子熊王令告知云々とある是なり、)
元和年中水戸賴房卿の臣小野角右衛門言員再興し、其後尾州家再造ありて宗祖の像をも寄納ありしと云ふ、
鬼子母神堂。宗祖開眼の像と云ふ、
稲荷社。巖窟中にあり、神體は熊王作と傳ふ、故に熊王稲荷と唱ふ、
日蓮塔。同所にあり、五輪塔なり、(新編相模国風土記稿より)


安國論寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿