石井山長勝寺。石井藤五郎長勝開基
長勝寺の概要
日蓮宗寺院の長勝寺は、石井山と号します。長勝寺は、妙法寺・安国論寺と共に、日蓮聖人が鎌倉に来て最初に営んだ小庵の旧地ではないかとも伝えられますが、石井藤五郎長勝が日蓮聖人に帰依(日際上人)、邸宅を一寺にしたのではないかといいます。その後日隆上人が再建、徳川家康が関東入国した天正18年(1590)には寺領四貫三百文の御朱印状を受領しています。
山号 | 石井山 |
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院号 | - |
寺号 | 長勝寺 |
本尊 | 三寶祖師像 |
住所 | 鎌倉市材木座2-12-17 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | 鎌倉材木座霊園 |
備考 | - |
長勝寺の縁起
長勝寺は、妙法寺・安国論寺と共に、日蓮聖人が鎌倉に来て最初に営んだ小庵の旧地ではないかとも伝えられますが、石井藤五郎長勝が日蓮聖人に帰依(日際上人)、邸宅を一寺にしたのではないかといいます。その後日隆上人が再建、徳川家康が関東入国した天正18年(1590)には寺領四貫三百文の御朱印状を受領しています。
新編相模国風土記稿による長勝寺の縁起
(大町村)長勝寺
松葉谷の南方にあり、石井山と號す、日蓮宗(京都本國寺末)寺傳に當所は日蓮菴室の地なり、其後一寺となし、日朗・日印・日靜次第して住す、靜は将軍尊氏の叔父にて當寺を京都に移す、今の本國寺是なり、故に當寺を本國寺舊蹟と稱す、後僧日際(平安元年九月晦日寂す)其舊蹟たるを追慕し、更に一寺を剏建せり、際は俗稱石井藤五郎長勝と云へり、故に寺を長勝寺と名づく因て際を中興開山と稱せりと云ふ、されど當所を京都本國寺の舊蹟と云は疑べし、寺寶宗祖の筆蹟二幅ありて一は建長六年石井藤五郎長勝へ授與の物、一は文應元年九月松葉谷石井長勝屋鋪、法華堂にて書せし物と云へば當所長勝が宅地にて日蓮此邊小菴に在りし頃長勝歸依して爰に堂舎を營み、其後一寺となし長勝寺と號せしならん、日靜が本國寺を京都に移せしは貞和元年なれば夫より四十六年已前、正安元年に寂せし日際、當時本國寺舊蹟に一寺を建と云ふもの年代事暦合期し難く其訛論すべからず、【鎌倉志】に長勝寺は荒地なりしを中頃僧日際舊地を慕ひ一寺を立、又寺號とを長勝寺と號す、故に日際を中興開山と云ふなり、(當寺寛永元年の鐘銘にも、日隆聖人所草創之精舎云々とあり)際は、房州小湊の人と云ふ、再興の年代際が死期もしれず云々、とあるに據れば當時長勝入道日際當寺を開基せしが本國寺京都に移轉の後當時も一旦廢寺となりしを、其後日隆再建ありしより妙法寺と同じく本國寺舊蹟の訛傳は起りしなるべし、天正十八年小田原陣の時豊臣太閤制札を出せり寺領四貫三百文は同十九年十一月御朱印を賜へり、本尊釋迦を安ず、本堂は小田原北條氏の臣遠山因幡守宗爲が建立と云ふ、
【寺寶】△日蓮書二幅(一は建長六年正月元日、石井藤五郎長勝エ授與之のあり、一は文應元年九月三日、松葉谷石長勝屋鋪法華堂にて、御認なりと書記せり、)△像一軀(長一尺五寸、立像、傳教作)△釋迦像一軀(唐木、長九寸二分、座像運慶作、)△大黒像一軀(長一尺四分、日蓮作、)△寶陀觀音像一軀(長一尺七寸五分、座像、道潤作、新羅三郎義光、守本尊と云ふ、)△山王像一軀(立像、長八寸二分、菅家作と云ふ)△八幡像一軀(金體立像、長一寸八分、将軍賴朝判あり、)△日蓮眞骨塔一基△同歯骨塔一基△古文書二通
△釋迦堂。本尊は立像なり(長一尺九寸、)
△祖師堂。中央に日蓮、左右に日朗・日印の像を安ず、
△鐘樓。鐘に寛永元年鑄造の序銘を彫す、
△銚子井。東方にあり、日蓮の供水と云ふ、寺傳には日蓮乞水と唱ふといへど是は近きあたり、同名の小井あるを混じ訛れるならん、【鎌倉志】には當寺境内に岩を穿ちし井あり、石井と號す、鎌倉十井の一なりと記す、此井の事歟今詳ならず、
△表門。妙法華庵の額を扁す、
△駒留木(新編相模国風土記稿より)
長勝寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿