白幡八幡大神。稲毛領の総鎮守、旧郷社
白幡八幡大神の概要
白幡八幡大神は、川崎市宮前区平にある神社です。白幡八幡大神は、源頼義が奥州征伐後の康平4年(1061)に創建したとも、源頼朝が建久3年(1192)に創建したともいい、稲毛領の総鎮守だったといいます。徳川家康が関東に入国した天正19年(1591)には社領70石の御朱印状を受領(その後3石へ減免)、明治6年には郷社に列格したといいます。
社号 | 白幡八幡大神 |
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祭神 | 応神天皇、玉依姫命、神功皇后 |
相殿 | 伊弉冊命 事解男命 速玉男命 天照皇太神 国常立命 倉稲魂命 日本武尊 天満大神 奥津島姫命 |
境内社 | - |
祭日 | 9月21日 |
住所 | 川崎市宮前区平4-6-1 |
備考 | - |
白幡八幡大神の由緒
白幡八幡大神は、源頼義が奥州征伐後の康平4年(1061)に創建したとも、源頼朝が建久3年(1192)に創建したともいい、稲毛領の総鎮守だったといいます。徳川家康が関東に入国した天正19年(1591)には社領70石の御朱印状を受領(その後3石へ減免)、明治6年には郷社に列格したといいます。
新編武蔵風土記稿による白幡八幡大神の由緒
(平村)八幡社
村の中央にあり、源榮山白旗八幡と號す、神供免三石餘なり社傳に云鎌倉の右大将源頼朝奥州の泰衡を征伐の時、此度の軍利あらば鎌倉より奥州までの海道の中、十里毎に八幡一祠を建立せんと誓言ありしが、果して勝利なりしかば建久三年に至りて、つひに誓の如く鎌倉より奥州までの間に數ヶ所の八幡を勧請せらる、當社は其一なりと、此事【東鑑】等にはさらになき事なり、鎌倉の古海道は今隣村土橋村の内に其跡遺れり、神體は應神天皇の一坐にて二尺許の木像なり、村の總鎮守にして例祭は二月初の卯の日と定め、社前に於て射衛の式あり、尤其形ばかりなり、本社は一間四方許の宮作りにして覆屋あり、拝殿は二間四方、稲毛總社八幡宮の七字を扁す、前に石階ありて其下に鳥居たてり、神主小泉信濃が事は村内熊野権現の神職を兼てしかも、権現の傍に居る故其所に事實を出せり、天正十九年東照宮の命ありて御武運長久の御祈禱をなせしにより、當社へ御供免七十石餘の御朱印を賜はれり、慶長五年台徳院殿關ヶ原御出陣の時釣命によりて御祈禱のため太々神楽を興行せり、御凱旋の後神器等御寄附あり、同き十九年大坂御出陣音首塗の時先年の御吉例を以て、御祈禱を命ぜらる、御凱旋の後も神主伊豫を召出されて銀子若干を賜はる、後いつの頃にか社地回禄の時御朱印烏有となりしかば、是まで賜はりし七十石の地は周公せられ、又其後願ひ上て三石免の地を除せられしより、今に至るまで先規の如く御祈禱御怠らず。(新編武蔵風土記稿より)
神奈川県神社誌による白幡八幡大神の由緒
康平年間に源頼義が奥羽二国征討の途上、八幡大神の御加護を祈願し、「よく大命を完了することを得ば鎌倉より街道十里ごとに八幡祠一宇を奉祠せん」と誓約し、後勅命を果すことが出来たので康平四年(一〇六一)当社を奉祠したが、源頼朝が鎌倉に幕府を開いてから建久三年当社を再建した。その後近郷下菅生村、馬絹村、宿河原村等に御分霊を奉斎するようになり稲毛惣社と称せられた。徳川家康江戸城に移るに至って当社に武運長久の祈禱を行い報賽として神供免田七十石余を朱印地として奉納された。今なお鎮斎されている御神像は享保十二年の奉彫である。明治六年郷社に列した。現社殿は昭和四十八年十一月十八日再建されたものである。(神奈川県神社誌より)
白幡八幡大神所蔵の文化財
- 白幡八幡大神と禰宜舞(川崎市重要習俗技芸)
白幡八幡大神と禰宜舞
禰宜舞は、白幡八幡大神の神主小泉家に代々伝わる、口伝による一子相伝の舞です。
舞は、素面による四方祓の舞のあと、その都度、面・衣装・持物をとりかえて、猿田彦命・天鈿女命・天児屋根命・彦火火出見命・大山祇命の神々を一人で舞います。
舞は、古い巫女舞の影響を受けて、舞いの所作に神招き・神懸りの古風が見られるとともに、出雲流神楽の系統を引く関東里神楽の特徴がとり入れられた独特のものとなっています。
川崎市教育委員会は、禰宜舞(付 神楽面五面、江戸時代後期作)を、昭和五十九年十月三十日、川崎市重要習俗技芸に指定しました。
なお、この舞は七月二十日及び、九月二十一日前後の日曜日に社殿で舞われます。(川崎市教育委員会掲示より)
白幡八幡大神の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 神奈川県神社誌