天照皇大神。川崎市幸区南加瀬の神社

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

天照皇大神。元弘年間の創建、太田道灌が参籠

天照皇大神の概要

天照皇大神は、川崎市幸区南加瀬にある神社です。天照皇大神の由緒は不詳ながら、元弘年間の創建といい、室町時代には太田持資入道道灌が当地に参籠、東北の空天に丹頂が舞う夢を見たことから、東北の地に江戸城を築城、当地を夢見ヶ崎と呼ぶようになったといいます。戦国時代には小田原北条氏の祈願所となり、北条氏政により歯救山神社の建立を受けたといいます。大正4年村内無格社五社を合祀したといいます。

天照皇大神
天照皇大神の概要
社号 天照皇大神
祭神 天照大神、撞榊厳魂天疎向津姫命、天満大自在天神、誉田別命、市杵島姫命、白山比咩命、第六天神、石神
相殿 -
境内社 浅間神社、弁才天社、石神社、三峯神社、稲荷社
祭日 大祭10月7日
住所 川崎市幸区南加瀬1-2-2
備考 -



天照皇大神の由緒

天照皇大神の由緒は不詳ながら、元弘年間の創建といい、室町時代には太田持資入道道灌が当地に参籠、東北の空天に丹頂が舞う夢見たことから、東北の地に江戸城を築城、当地を夢見ヶ崎と呼ぶようになったといいます。戦国時代には小田原北条氏の祈願所となり、北条氏政により歯救山神社の建立を受けたといいます。大正4年村内無格社五社を合祀したといいます。

新編武蔵風土記稿による天照皇大神の由緒

(南加瀬村)
八幡社
夢見ヶ崎の邊小名山崎にあり、南向の小祠鎮座の初を失へり、村持。
神明社
北の方村境加瀬山にあり、鎮座の始を傳へず、社前に拝殿あり二間に二間半前に鳥居あり、社前に石階あり高さ六丈にあまれり、山の麓は打ひらけたる平田なれば、この階の中ばより安房上総の山々、久良岐本牧十二天の邊を見おろし、眼界殊に濶し。相傳ふ本社建し所の土中に石櫃などありて年久しきことなれば其破壊せし方片石を得たるにや定かならず。
辨天社
前にいへる神明の山續き西の方にあり、石の小祠なり村持。
白山社
前の祠辨天社の山につづきてあり小祠にて是も村持。
第六天社
是も白山の並びにあり、石にて作れる小祠なり、村持。
石神社
西方の田間にあり、村持。
神明社
村の南東小祠岩瀬にあり例祭九月十六日なり、是をすべて鎮座の年代を傳へず。
末社稲荷天神合社。社に向て右の方にあり。(新編武蔵風土記稿より)

神奈川県神社誌による天照皇大神の由緒

当社は古く元弘年間の勧請で、康正・長禄の頃、太田持資入道道灌此地に一城を築かんと企画し、屡々本社に祈願を籠めた。一夜参詣の暁東北の空天に丹頂の舞うを夢み、其の処に一城を築いた。それが江戸城であるが、其の曲浦を舞鶴の入江と名附け、城を千代田城と称うのは、本社丹頂の霊夢に因るという。当社鎮座地の盗難小字名を太田道灌夢見ヶ崎と呼ぶのはこの故である。其の後明応・大永の頃相州小田原北条氏の祈願所となり、北条氏政によって別に歯救山神社の一社を勧請した。祭神は白山比売命、社殿は八棟造で荘厳を極め、月次北条氏より代参があって祭事を執行したと伝えるが、天正年間武蔵兵乱の際荘厳優美を尽したる社殿・旧記・記録等悉く灰燼に帰した。降って天保八年村民旧時を偲び、大いに工を起して本殿及拝殿を再建し、明治十七年更に拝殿を改築、大正四年村内無格社五社を合祀した。此の年十二月冬至の日村民氏子諸人の司宰く星神の祭事を行ない現在に至る。新編武蔵風土記「南加瀬村」の項に「神明社、北の方村境加瀬山にあり、鎮座の始を伝えず。社前に拝殿、二間に二間半。前に鳥居あり。社前に石階あり高さ六丈にあまれり。(中略)本社建ちし所の土中に石櫃あり、云々」と記されている。(神奈川県神社誌より)


天照皇大神の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 神奈川県神社誌