子之神社。源為朝が源義朝に向けて放った矢鏃が納められ神社
子之神社の概要
子之神社は、川崎市多摩区菅北浦にある神社です。子之神社の創建年代等は不詳ながら、源為朝が源義朝に向けて放った矢鏃を、義朝の子義経が受継ぎ、当所に参籠した折地主明神の祠に納めたことから根之神と称するようになったとも伝えられます。江戸期を通して菅村の鎮守社として祀られ、明治6年社号を子之神社と改め村社に列格したといいます。
社号 | 子之神社 |
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祭神 | 大貴已命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 例祭日十月九日 |
住所 | 川崎市多摩区菅北浦5-4-1 |
備考 | - |
子之神社の由緒
子之神社の創建年代等は不詳ながら、源為朝が源義朝に向けて放った矢鏃を、義朝の子義経が受継ぎ、当所に参籠した折地主明神の祠に納めたことから根之神と称するようになったとも伝えられます。江戸期を通して菅村の鎮守社として祀られ、明治6年社号を子之神社と改め村社に列格したといいます。
新編武蔵風土記稿による子之神社の由緒
(菅村)根の上社
村の鎮守なり、南の方丘上にあり、別當法泉寺の縁起を以て考るに、其略に云、當所菅村地主明神は、大貴已尊の靈廟にして、その鎮座の年代をしらず、傳へていふ、本地は十一面観音なりと、又後人薬師第一の夜刃大将を宮毘羅神に習合してこれを崇む。よりて子神と名づく、又保元の亂に白河殿夜討の時、鎮西八郎爲朝が義朝に向て放ちし矢鏃を、義朝の妾常盤の前素顔のことありて、常に懐を放たず、後に其子義経に譲り與へける、是より義経も身をはんたずして奉じける。爰に當村の薬師佛はもと常盤の前が守護佛なりしが、亂逆の際移轉して當所の仙谷と云所へ遷座ありしなり、一年義経この堂に参籠して従者十三人と同く、この本尊を念じ、義経懐中よりかの矢の根をとり出して醫王殿に納めける、夫より地名を大箭所といへり、後かの矢の根を佛前より申おとし、地主明神の祠へ納めて神體とせしにより、其字音の近きゆへ子神を改て根神とす、社壇を竹鼻と云處に築きて、惣郷の鎮守とす、これより毎歳正月九日神前にて猿楽の男舞及賭的あり、楊の弓青竹の箭を以これを射る、名主二人氏子七ケ村のものとも座に列するを以永式とせり、元弘三年五月新田左中将義貞鎌倉へ攻入りし時、先陣堀江江田里美等の兵此所をすぎ、當山に亂入して神社佛宇に放火せしかば、ことごとく烏有せり、遙の後小田原北條の家人佐保田山城入道政房當所の人なりければ、かの人の願によりて氏康當社を再興ありしは天文二年七月なり、天正十八年小田原攻のとき、北國勢の爲に焼れて再び烏有せり、この後住侶長辨檀越に勧進してわづかに小堂を營み、その形を存ずるのみなり、後中根壹岐守正致が采地となりし頃、そこばくの田畑を寄せしゆへ、今のごとく社もつくりしなりと云々、猶法泉寺の條下と照し見るべし。本社一丈四方拝殿四間に二間、前に石の鳥居をたつ、夫より前に石階五十餘級あり。(新編武蔵風土記稿より)
神奈川県神社誌による子之神社の由緒
北条の家人、佐保田山城守政房が、馬場谷戸に館を建てた際、その子の方角に地主神を祭ったのが、子之神社の起りと云われている。(神奈川県神社誌より)
境内掲示による子之神社の由緒
鎌倉時代の創建と云伝う。往時当社の別当法泉寺に蔵する当社の縁起に依れば、菅村地主明神は大巳貴神霊廟にして鎮座の年代を知らず、伝えて云う。本地は十一面観音なりと。後人薬師第一夜叉大将をこれに習合して子之神と名づく。
保元の乱に白河殿夜討ちの時、鎮西八郎爲朝が、左馬頭義朝に向けて放ちし矢鏃を義朝の子義経がこれを受継ぎ所持し当所に参籠した折地主明神の祠に納め以後根之神と稱す。又口碑によれば稲毛七郷の士馬場谷にて流鏑を行い馬場の子の方に祠を建て、これに矢の根を納めしより根の上社、又子之神と稱す。
社壇を竹の鼻に築きて惣郷の鎮守とす。これより毎年正月九日、神前にて猿楽の男舞、及賭的あり。名主二名七ケ村のものども座に列す。
その後新田義貞鎌倉攻入の時、兵火にかかり社殿焼失す。後小田原北条の家人佐保田山城入道政房当地の出身にて、その願により天文二年七月、北條氏康の手により再興す。
天正十八年、北國上杉勢小田原攻めの途次再び烏有せり。此後法泉寺住呂長弁の勧進により小宇を建立す。
後正保年間中根壹岐守正致当地の地頭となり、田畠を寄せ社殿を造営す。
元禄三年当所は御料所となり伊奈半十郎忠篤の支配となる。
明治六年十二月村社に列せられ社名を子之神社と定められる。
明治十三年本社の覆屋及拝殿を改築し今日に至る。
現在氏子会の所管となる。(境内掲示より)
子之神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 神奈川県神社誌