明治天皇臨幸御観梅跡|御幸の名称の由来となった明治天皇の観梅
明治天皇臨幸御観梅跡の概要
明治天皇臨幸御観梅跡は、川崎市幸区にある名所旧跡です。明治天皇臨幸御観梅跡は、寛文年間(1661-1673)頃から当地で盛んとなっていた梅林に、明治17年明治天皇が観梅のために行幸した地だといいます。明治23年に当地小向周辺数ヶ村の合併に際しては、明治天皇の行幸に因んで御幸村と命名、近隣に御幸の名称が残る由来となっています。
名称 | 明治天皇臨幸御観梅跡 |
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みどころ | 神奈川県指定史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 川崎市幸区東古市場1御幸公園 |
備考 | - |
明治天皇臨幸御観梅跡の由緒
明治天皇臨幸御観梅跡は、寛文年間(1661-1673)頃から当地で盛んとなっていた梅林に、明治17年明治天皇が観梅のために行幸した地だといいます。明治23年に当地小向周辺数ヶ村の合併に際しては、明治天皇の行幸に因んで御幸村と命名、近隣に御幸の名称が残る由来となっています。
境内掲示による明治天皇臨幸御観梅跡について
明治天皇臨幸御観梅跡
この梅林は、江戸時代の初め寛文の頃(17世紀中頃)に植え初められたもので、その果実は梅干しとして200余年の間、江戸の市民の食膳にのぼっておりました。しかし、30ヘクタールもあった「しろかが梅」の林も、明治初年の多摩川のはんらんで、3分の2以上を失ない、加えてその頃には老樹となっていたため果実の収穫も激減してしまいました。
明治13年2月、成島柳北がここと探勝し、「小向観梅の記」という一文をおこし、『一村尽く梅で夜はいわゆる天地一白、燈を点せずして車を挽くを得べし』と紹介してから、一躍梅の名所としてその名を天下にとどろかせるにいたりました。
明治17年3月19日には、明治天皇が観梅のため行幸になり、のち明治23年小向村他数ヶ村の合併に際しては、その光栄を記念して、村名を御幸村と名づけました。
資料提供川崎市教育委員会(境内掲示より)
明治天皇臨幸御観梅跡の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 神奈川県神社誌