光明寺。川崎市高津区にある真宗大谷派寺院
光明寺の概要
真宗大谷派寺院の光明寺は、大悲山と号します。光明寺の創建年代等は不詳ながら、当地よりも南の方にあったといい、専造坊が元亀2年(1571)天台宗寺院から浄土真宗寺院へ改めたといい、その後年不詳ながら当地へ移転したといいます。
山号 | 大悲山 |
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院号 | - |
寺号 | 光明寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 川崎市高津区二子1-10-10 |
宗派 | 真宗大谷派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
光明寺の縁起
光明寺の創建年代等は不詳ながら、当地よりも南の方にあったといい、専造坊が元亀2年(1571)天台宗寺院から浄土真宗寺院へ改めたといい、その後年不詳ながら当地へ移転したといいます。
新編武蔵風土記稿による光明寺の縁起
(二子村)光明寺
村の中程街道の内にあり、浄土真宗にて相模國大住郡岡田村長徳寺末、大悲山と號す、此寺古は天台宗なりし由、其頃は村の南の方にありて、二子塚も其境内にあり、元亀二年専造坊といへるもの當宗を開基せりと、此僧文禄三年十二月六日寂す、其後何の頃か今の所に移りたれども、二子塚の内一は當寺の持なりと云、此餘の事記録を失ひたれば詳にしがたし、客殿六間四方巽に向ふ、本尊弥陀の立像にて長一尺五寸作しれず。
鐘楼。門を入て左の方にあり二間四方鐘の圓径三尺許、寶暦十二年鋳しものなり。(新編武蔵風土記稿より)
「川崎市史」による光明寺の縁起
光明寺は真宗大谷派で二子村の旧来の家はこの光明寺の檀家である。光明寺は武田の家臣小山田宗光が専浄と称し、この地に小庵を結んだが、慶長五年(一六〇〇)に関東に下ってきた本願寺の教如の教化を受け、真宗に改宗して現在にいたる。真宗寺院では春の永代経と報恩講が二大行事となるが、光明寺では永代経が四月十九日、報恩講が十二月二日に行われる。(「川崎市史」より)
光明寺所蔵の文化財
- 絹本着色・浄土七高祖連座像(川崎市重要歴史記念物)
- 絹本着色・聖徳太子像(川崎市重要歴史記念物)
- 大貫雪之助の墓
新編武蔵風土記稿による光明寺の縁起
光明寺の文化財
当寺は、真宗大谷派に属しています。
当寺所蔵の文化財のうち、絹本着色・浄土七高祖連座像は、インド・中国・日本の浄土教(浄土真宗)の祖師たちを対称構図で描いたもので、寛文十二年(一六七二)の制作です。
絹本着色・親鸞聖人像は、浄土真宗の開祖・親鸞聖人の晩年の御姿を描いたもので、宝永二年(一七〇五)の制作です。
絹本着色・聖徳太子像は、父・用明天皇の病気平癒を祈る十六歳の時の御姿を描いたもので、寛文十二年(一六七二)の制作です。
川崎市教育委員会は、これらの絵画を、昭和六十一年八月二十八日、川崎市重要歴史記念物に指定しました。(川崎市教育委員会掲示より)
大貫雪之助の墓
大貫雪之助(晶川)は明治20年(1887)2月22日橘樹郡高津村二子(当光明寺前が元大貫家)の大貫寅吉の次男として生まれました。第1高等学校在学中に文才を認められ、妹カノ(後の岡本かの子)と共に与謝野鉄幹・晶子夫妻の「新詩社」に参加し、東京帝国大学英文科在学中、第2次「新思潮」が主宰する創刊にあたり、谷崎潤一郎・和辻哲郎・木村荘太・後藤末雄などと共に同人として活躍し、その前途を期待されましたが、大学を卒業した年の大正元年(1912)11月2日丹毒の病で急逝しました。
当光明寺境内の大貫家墓地にその墓碑があります。(高津観光協会・高津区役所掲示より)
光明寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿