薬師院。盤珪国師止錫、稲毛七薬師
薬師院の概要
臨済宗妙心寺派寺院の薬師院は、医王山と号します。薬師院の草創年代等は不詳ながら、薬師堂だったといいます。盤珪国師が関東を訪れた際当地に止錫、時の住持禅奥性海師(当院第一世)が国師に帰依、明暦元年(1655)臨済宗寺院として開山したといいます。稲毛七薬師の一です。
山号 | 医王山 |
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院号 | 薬師院 |
寺号 | - |
住所 | 川崎市高津区新作3-27-1 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
薬師院の縁起
薬師院の草創年代等は不詳ながら、薬師堂だったといいます。盤珪国師が関東を訪れた際当地に止錫、時の住持禅奥性海師(当院第一世)が国師に帰依、明暦元年(1655)臨済宗寺院として開山したといいます。
新編武蔵風土記稿による薬師院の縁起
(新作村)薬師堂
村の中央小名間際根にあり丘の半腹なり、土人は庵と呼ぶ四間四方南向なり、薬師の長二尺餘の立像行基の作なりと云、江戸麻布光林寺の住持槃桂の開基なり、槃桂は済家の内にて別に一派をなし、一時大に宗法を振ひし頃庵を建て休息所とせしといふ。(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による薬師院の縁起
医王山薬師院
当院は江戸時代の名僧盤珪国師が初めて関東に来られた時第一に足跡を印せられた由緒ある寺である。当時の住職禅奥性海師(当院第一世)が国師に深く帰依し、開山と仰いで臨済宗妙心寺派の寺院となった(創建明暦元年1655)。
それから凡そ百年後、火災にあって現在地に移り(宝暦五年1755)約二百四十年を経て老朽化したため改築(平成九年1997)された。新しい建物は本堂、方丈共に防災構造である。(境内掲示より)
薬師院所蔵の文化財
- 絹本墨画着色・盤珪永琢画像(川崎市重要歴史記念物)
絹本墨画着色・盤珪永琢画像
当院は、臨済宗妙心寺派に属しています。
当院所蔵の絹本墨画着色・盤珪永琢画像は、通常の禅僧画像(頂相)とは異なり、墨線と墨彩色を基調とし、関東地方に遺存する室町時代の水墨系頂相の系統をひいています。江戸時代安永四年(一七七五)の制作と思われます。像主・盤珪永琢(一六二二~九三)は、京都・妙心寺の住持をつとめた禅僧でした。
川崎市教育委員会は、この絵画を、昭和六十年十二月二十四日、川崎市重要歴史記念物に指定しました。(川崎市教育委員会掲示より)
薬師院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿