早川紀伊神社。木地挽(轆轤師)の開発者惟喬親王を祀る社
早川紀伊神社の概要
早川紀伊神社は、小田原市早川にある神社です。早川紀伊神社は、天安2年(858)伊豆に流罪となった文徳天皇の第一皇子惟喬親王が当地で逝去、惟喬親王を祀り貞観年間(859-876)に創建したとされ、親王の付人が木地挽(轆轤師)により朝夕の奉仕の料に当てたと伝えられます。惟喬親王は木地挽(轆轤師)の開発者とされることから、箱根物産木工業に携わる人達等からの崇敬を集め、木宮大権現・紀伊宮大権現と称され、往古は勅使の下向を受ける大社だったと伝えられています。江戸期には早川村の鎮守として祀られ、明治6年村社に列格、大正7年には神饌幣帛料供進神社に指定されていました。
社号 | 紀伊神社 |
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祭神 | 五十猛命、惟喬親王 |
相殿 | - |
境内社 | 聖徳太子社、駒形社、龍宮社、牛頭社、道祖神 |
祭日 | 4月24日 |
住所 | 小田原市早川1183-1 |
備考 | - |
早川紀伊神社の由緒
早川紀伊神社は、天安2年(858)伊豆に流罪となった文徳天皇の第一皇子惟喬親王が当地で逝去、惟喬親王を祀り貞観年間(859-876)に創建したとされ、親王の付人が木地挽(轆轤師)により朝夕の奉仕の料に当てたと伝えられます。惟喬親王は地挽(轆轤師)の開発者とされることから、箱根物産木工業に携わる人達等からの崇敬を集め、木宮大権現・紀伊宮大権現と称され、往古は勅使の下向を受ける大社だったと伝えられています。江戸期には早川村の鎮守として祀られ、明治6年村社に列格、大正7年には神饌幣帛料供進神社に指定されていました。
境内掲示による早川紀伊神社の由緒
紀伊神社
早川の氏神様で往古は木宮大権現、のち紀伊宮大権現と称され、土地の人からは「木の宮さん」と呼ばれた。箱根物産木工業の人たちに昔から崇拝されてきた神社である。
神社縁起によれば、貞観年中(859~876)の創建で、祭神は五十猛命と惟喬親王(文徳天皇の第一皇子)とが奉祀されている。
木地挽(轆轤師)の開発者といわれる惟喬親王は天安2年(858)京の都を追われて伊豆(河津)に流罪となったが、途中風にあい国府津海岸につき早川の庄に至りこの地で歿したといわれ、当時親王の付人が木地を挽いて、朝夕の奉仕の料に当てたといわれている。
また、この地には「木地挽」と言う字名が現存するが、この字名はその名残であると言う。
なお、紀伊神社の社宝である「木地挽」は、小田原市の重要文化財に、社叢は天然記念物にそれぞれ指定されており、中でも社殿前のクスノキは市内で最大の老木である。(境内掲示より)
新編相模国風土記稿による早川紀伊神社の由緒
(早川村)
紀伊權現社
本地地蔵を置、村の鎮守なり、祭禮六月廿四日、村民持、天正元年の鰐口(小田原住、平政秀納と銘ありしと云、)ありしが今失へり、
△末社。駒形 龍神 天王
△鐘樓。貞享元年の鐘をかく、(序文に木之宮と題す、)(新編相模国風土記稿より)
神奈川県神社誌による早川紀伊神社の由緒
往古は貴の宮大権現・木宮大権現・紀伊宮大権現といい、明治維新の後現称に改められた。
創立は貞観年中といわれ、明治六年七月三十日旧足柄県に珍て村社に定められ、大正七年二月境内地模様替え並びに社殿改築工事が竣功し、大正七年四月二十二日神饌幣帛料供進神社に指定された。
祭神五十猛命は、上代より「木の神」として崇められ、氏神として集落内に奉祀されて来た。その後、今から千百年以上の昔、文徳天皇の第一皇子惟喬親王がこの地で亡くなられて合祀され、官女及び随臣の小倉・加藤等が木地を挽いて、御息女・姫君を養育し奉り、朝夕奉仕の糧にあてられたという。
なお、往昔は勅使のご下向もあって大社であったが、相模入道が没収してから後は小社となりて、その十分の一が現存しているに過ぎないという。(「神奈川県神社誌」より)
早川紀伊神社所蔵の文化財
- 「木地挽」(小田原市指定文化財)
- 早川紀伊神社の社叢(小田原市指定天然記念物)
- 小田原(早川)の道祖神(小田原市指定文化財)
早川紀伊神社の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿