松原神社。旧足柄県の県社
松原神社の概要
松原神社は、小田原市本町にある神社です。松原神社の創建年代は不詳ですが、久安年間(1145-1150)に創建、鶴の森明神と称していたといいます。後北条氏よりの尊崇厚く社領1万石を拝領、天文年間(1532-1555)には山王原村松原の海中より出現した十一面観音を本地佛として祀ったことから神号を松原大明神と称したといいます。江戸時代には小田原19宿の総鎮守となっており、明治2年松原神社と改称、明治6年には足柄県の県社に列格していたといいます。
社号 | 松原神社 |
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祭神 | 日本武尊 |
相殿 | 素盞嗚尊、宇迦之御魂神 |
境内社 | 住吉神社、鹿島神社、手置神社、稲荷神社、八幡神社 |
祭日 | 5月3、4、5日 |
住所 | 小田原市本町2-10-16 |
備考 | - |
松原神社の由緒
松原神社の創建年代は不詳ですが、久安年間(1145-1150)に創建、鶴の森明神と称していたといいます。後北条氏よりの尊崇厚く社領1万石を拝領、天文年間(1532-1555)には山王原村松原の海中より出現した十一面観音を本地佛として祀ったことから神号を松原大明神と称したといいます。江戸時代には小田原19宿の総鎮守となっており、明治2年松原神社と改称、明治6年には足柄県の県社に列格していたといいます。
境内掲示による松原神社の由緒
縁由及び創祀の記録は灰燼に帰して詳かではないが古老の口碑に依れば近衛天皇久安年間の勧請なると云はれている。後醍醐天皇の頃当所に真鶴が棲み、故に鶴の森明神と称したと云う。
後奈良天皇天文年間に山王原村松原の海中より十一面観音が出現、その託宣に依り当社の本地佛として祀ったことから神号を松原大明神と称したと云う。明応四年北条氏の小田原を治めるに当り当社への尊崇頗る厚く鎮守として社領一万石を寄せ氏綱、氏康等大事毎に必ず祈願した。天正十八年北条氏廃滅後、後水尾天皇寛永九年稲葉氏の領となっても亦、鎮守として崇祀し社費は悉く藩財を以て之に当てた。霊元天皇貞享三年旧領主大久保氏が封を再び此の地に受けた事に依り猶先規に従い鎮守として崇敬前代に劣らず代々小田原の宿十九町の総鎮守とした。明治二年松原神社と改称し、明治六年一月旧足柄縣に於いて縣社と定められ、明治四十年四月二日神饌幣帛料供進神社に指定された。(境内掲示より)
神奈川県神社誌による松原神社の由緒
松原神社
縁由及創立年月等旧記灰燼に帰し、詳らかならず。古老の口碑に久安年中の勧請なりという。当時鶴森明神と称す。これ此の地に真名鶴の栖ありし故なりという。天文年間、山王原の海中より十一面観音石室に出現す。其の託宣に依りて当社に遷して本地仏となし現社号に改む。北条氏の小田原によるや、尊崇頗る厚く、鎮守となし、社領一万石を寄せ、氏綱氏康等大事毎に必ず当社に祈願す。天正十八年(一五九〇)、同氏廃滅後、寛永九年稲葉氏の領となりても亦鎮守として崇祀し、社費悉皆藩閥を以て之に充つ。貞享三年旧領主大久保氏の封を此の地に受くるや、猶先規に依りて鎮守となし、崇敬前代に劣らず。小田原駅の惣たり。明治六年一月旧足柄県に於て県社及郷社に定められ、明治四十年四月神饌幣帛供進神社に指定せらる。大正十二年九月一日関東大震災のため社殿焼失、昭和六年十一月現社殿を造営す。神社庁指定神社。(神奈川県神社誌より)
松原神社の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿