居神神社。小田原市城山の神社

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

居神神社。戦いに敗れた三浦半島新井城主三浦荒次郎義意の首を成仏させるため創建

居神神社の概要

居神神社は、小田原市城山にある神社です。居神神社は、北条早雲との戦いに敗れた三浦半島新井城主三浦荒次郎義意が永正15年(1518)に自刃、その首が井神の森の古松にかぶりつき、そのまま3年間通行人をにらみつけ、これを久野総世寺四世忠室存孝和尚が成仏させて祀ったといいます。江戸期には山角町・板橋村の鎮守社だったといい、明治43年大窪村板橋浅間神社、同村同字秋葉神社を合併したといいます。

居神神社
居神神社の概要
社号 居神神社
祭神 三浦荒次郎義意、木花咲耶姫命、火之加具土命
相殿 -
境内社 水神社、金刀比羅神社、八幡神社、摩利支神社
祭日 5月10日
住所 小田原市城山4-23-29
備考 -



居神神社の由緒

居神神社は、北条早雲との戦いに敗れた三浦半島新井城主三浦荒次郎義意が永正15年(1518)に自刃、その首が井神の森の古松にかぶりつき、そのまま3年間通行人をにらみつけ、これを久野総世寺四世忠室存孝和尚が成仏させて祀ったといいます。江戸期には山角町・板橋村の鎮守社だったといい、明治43年大窪村板橋浅間神社、同村同字秋葉神社を合併したといいます。

境内掲示による居神神社の由緒

居神神社、または井神神社、祭神は木花咲邪姫命、比之加具土神と三浦荒次郎義意公の霊とされている。
祭神三浦荒次郎については、壮絶なる創建伝説が伝わっている。
三浦半島の新井城主であった三浦荒次郎義意は、伊勢新九郎盛時(北条早雲)に攻城され、永正13年7月11日、父陸奥守善同とともに自刃した。戦後義意自刃の際、その首は三浦半島から海を越えて小田原まで飛来し、井神の森の古松にかぶりつき、そのまま3年間通行人をにらみつけたといいう。
そこで、城下の僧が代わる代わる供養したが、成仏しなかった。これを聞いた久野総世寺の四世忠室存孝和尚が駆けつけ、松の下に立ってしばらく読経の後、「うつつとも夢とも知らぬひとねむり、浮世の隙を曙の空」と詠むと、さしもの怨霊も成仏し、たちまち白骨として地に落ちた。その時空より「われ今より当所の守り神にならん」との声があったという。そこで社を建て居神神社として祭ったといわれている。(境内掲示より)

神奈川県神社誌による居神神社の由緒

創立年月等旧記焼失して詳らかでない。古老の口碑に永正年間の勧請と伝えられている。義意永正十五年七月十一日北条早雲と戦い破れて自刃し、其の首が飛んで当山の松の棺に掛った。三年たっても眼を閉じず、往返の人々が其の妖気にうたれ命を失う者少なくなく、そのために、久野諏訪の原総世寺沙門第四世忠室和尚が、和歌「うつつとも夢とも知らぬ一眠り浮世の隙を曙の空」と詠じて手向けたところ、首は松の枝から落ち、且つ中空に声がして、「永く当所の守護神となるべし」と聞えたと伝えられる。その松の下に詞を建て神と崇むと伝えら
れている。当町旧十字二丁目、三丁目、大窪村板橋の鎮守である。明治四十三年九月十日大窪村板橋浅間神社、同村同字秋葉神社を合併した。(神奈川県神社誌より)

新編相模国風土記稿による居神神社の由緒

(山角町)居神明神社
三浦荒次郎(弾正少弼と稱す)平義意の霊を祀る、神躰は束帶の像なり、長一尺五寸許、義意永正十五年七月十一日、北条早雲と戦負て自刃し、其首飛揚して當山の松梢に掛る、社地に枯松樹あり、竪三尺首掛松と呼ぶ、按ずるに、陸奥守義同、弾正少弼義意父子、早雲の為に三浦新井城にて滅亡し、義意の首を當所に梟せしをかく奇怪の説を儲しなるべし。三年眼未た閉ず、因て総世寺沙門忠室、和歌(うつつとも夢ともしらぬ一眠り浮世の隙を曙ののそら)を詠じて、怨霊を化導せしかば、頚松梢より忽堕、(按ずるに此事小田原記北条五代記等に載す、但和歌を手向しかば首忽瞑して白骨となりしとあり、)且空中に聲ありて、今より永く當所の守護神となるべしと聞へしかば、即松下に祠を建、神と崇むとなり、當町及板橋村の鎮守なり、祭禮六月十一日、隔年に神輿巡行す、(巡行の次第、山角・筋違二町より箱根口城内馬出門にて祈祷、大手に出、青物町欄干橋より安斎小路に入、濱下り祈祷、夫より板橋村地蔵堂前に至る)、此式大永元年より始れりと云、幣殿・拝殿前に石階等あり、按ずるに、町内傳肇寺所蔵、天正十六年の文書に、井神之森と云事見ゆ。
末社。摩利支天、金毘羅、牛頭天王、水神、疱瘡神
本地堂。子易地蔵を置、恵心作、長三尺二寸。
神輿堂。
別当庭松寺
曹洞宗、板橋村香林寺末、居神山と號す、開山明庵文聴、本寺四世、弘治三年正月二十七日卒。(新編相模国風土記稿より)


居神神社所蔵の文化財

  • 居神神社境内の古碑群
  • 子安地蔵尊

居神神社境内の古碑群

この古碑群は市街地に残るものとして最も古いもので、鎌倉時代末期のものです。
文保・元享の両板碑には刻文があり、その中のいずれにも念仏乗の字句があって、これらの板碑が念仏供養のために建てられたものであることが分かります。
なお、向って右手の五輪塔線刻碑二基と、左手の念仏塔、庚申塔など四基は、未指定で、近隣から移転してきたものです。
形状等
古碑の種類 碑の高さ(cm)
五輪塔線刻碑 三九,五
文保元年銘版碑 一三五,〇(文保元年(一三一七)二月二四日と刻まれる)
五輪塔線刻碑 五三,五
元享二年銘版碑 一二三,〇(元享二年(一三二二)一二月一四日と刻まれる)
五輪塔陽刻碑 四八,〇(小田原市教育委員会掲示より)

子安地蔵尊由来

御本尊 子安地蔵尊大菩薩 恵心僧都作
この地蔵尊は数百年もの昔からこの地に安置され心の拠りどころとして付近の人々を初め多くの方々から尊崇されて参りました。
永正年間(一五〇四〜一五二〇年)に居神神社が創建されましてからは当社の本地佛として祀られてまいりました。
貞享四年(一六八七年)には堯門和尚により又、天明六年(一七八七)には知覚和尚により、それぞれ再興されておりますが明治初年の神仏分離以来永きに亘り秘佛とされてまいりました。
昭和六十年本地蔵堂および鞘堂が建立され再び往時の如く一般の方々に親しくお詣りいただきご祈願いただけるようになりました。
ご胎内の願文によりますと普く生みの親達の後生安楽至善の生活、子供の健やかな成育、万生の人々の抜苦、招福を厚く厚く祈願したいものでございます。
祈るとも 験なきこそ しるしなれ 祈る心に誠なければ(境内掲示より)

居神神社の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿