大久保神社。祭神大久保忠世、明治26年創建、旧県社
大久保神社の概要
大久保神社は、小田原市城山にある神社です。大久保神社は、大久保忠世を祭神として、明治26年(1893)小田原城天守台跡に創建、明治28年には県社に列格したといいます。小田原城天守台跡が御用邸となったため、明治33年に当地に遷宮したといいます。
社号 | 大久保神社 |
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祭神 | 大久保忠世候、大久保忠真侯 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 10月20日 |
住所 | 小田原市城山3-27-7 |
備考 | 旧県社 |
大久保神社の由緒
大久保神社は、大久保忠世を祭神として、明治26年(1893)小田原城天守台跡に創建、明治28年には県社に列格したといいます。小田原城天守台跡が御用邸となったため、明治33年に当地に遷宮したといいます。
境内掲示による大久保神社の由緒
小田原大久保家初代忠世並びに10代忠真を祀る。
大久保家は、下野(今の栃木県)宇都宮い勢力を持った藤原道兼の流れの宇都宮朝綱の子孫で泰藤のとき、建武の役に新田義貞に従い転職したが、義貞が越前で討死したので三河の上和田に土着した。その後、姓を宇都宮から宇津に改め5代目昌忠(室町期)の頃から徳川の祖、松平信光に属した。昌忠の曾孫忠員の時、姓を宇津から大久保に改めた。
忠世はこの忠員の子で遠州二俣城主であったが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻略で徳川家康に従い参戦し、戦後4万5千石で小田原城主となった。
大久保家は2代忠隣のとき改易になり、その後大名に復活し5代忠朝のとき小田原藩主に帰り咲いたのは、70年不在の後であった。石高は11万3千石に達した
忠真は、大阪城代、京都所司代、老中を歴任し、二宮尊徳を始め多くの人材を登用し、忠臣孝子を顕彰するなどし大久保家中興の名君と知られている。以降も代々小田原城主として栄え、15代忠良の明治の大政奉還まで小田原藩主として続いていた。(境内掲示より)
神奈川県神社誌による大久保神社の由緒
大久保神社
大久保忠世公は藤原鎌足公の遠裔にして天文天正の頃、徳川家康の麾下にあり。軍功最も多く、即ち駿遠の要塞を攻略し、甲信の諸城を絢下しるが如き其の功著しきものあり。禍乱略ぼ定まるや、小田原に封ぜられ、以後累世領主となる。明治二十六年地を縁深き小田原城天主閣跡に相し、社殿を創建。同年九月十五日鎮座すり明治二十八年十一月十八日県社に列せられ、明治三十二年十二月九日旧社地宮内省御用地となるを以て明治三十三年八月小峯山の現社地に移転す。明治四十年四月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。昭和十年十月十九日大久保家中興の祖忠真公を合祀す。(神奈川県神社誌より)
大久保神社の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿