宗我神社。曽我郷の鎮守、旧称小澤明神社
宗我神社の概要
宗我神社は、小田原市曽我谷津にある神社です。宗我神社は、式内大社宗我都比古神社の神主だった宗我保慶が、社職を子息保頼に譲り長元元年(1028)当地へ下向、武内宿祢及び宗我都比古命を鎮祭して創建したとされます。曽我郷6ヶ村の総鎮守として祀られ、また小田原城鬼門鎮護の社として祀られ、江戸期には小澤明神社と称していました。
社号 | 宗我神社 |
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祭神 | 宗我都比古命、宗我都比女命 |
相殿 | 応神天皇、桓武天皇、小沢大明神 |
境内社 | - |
祭日 | 例大祭10月9日 |
住所 | 小田原市曽我谷津278 |
備考 | - |
宗我神社の由緒
宗我神社は、式内大社宗我都比古神社の神主だった宗我保慶が、社職を子息保頼に譲り長元元年(1028)当地へ下向、武内宿祢及び宗我都比古命を鎮祭して創建したとされます。曽我郷6ヶ村の総鎮守として祀られ、また小田原城鬼門鎮護の社として祀られ、江戸期には小澤明神社と称していました。
境内掲示による宗我神社の由緒
宗我神社は明治28年の神社上書に依れば、「長元元年(1028)」に奈良県橿原市曽我町の式内大社宗我都比古神社の神主だった宗我保慶が祖先の宗我都比古命の墓を訪い、同時に武内宿祢及び宗我都比古命を鎮祭して・・・」が当社の創建と決めています。
足柄上郡旧上曽我村及び曽我大沢と、下郡の下曽我に属する旧四村を併せて、古くは曽我郷六ヶ村と呼ばれました。その総鎮守が宗我神社でした。小田原北条氏の時代から小田原城鬼門擁護の神社とされていました。江戸時代には小沢明神の名で総崇され、明治に入って六ヶ村それぞれの鎮守をこの社に会示し、新たに宗我神社となりました。現在の社殿は大正12年(1923)関東大震災後に復興したものです。(境内掲示より)
新編相模国風土記稿による宗我神社の由緒
(曾我谷津村)
小澤明神社
曾我里六村の惣鎮守なり、祭神三座、中央小澤明神、(木像、鎮座の年代を傳へず、)左應守天皇(幣束を置、曾我祐信、鶴岡八幡を勧請すと云、)右桓武天皇(木像、北條氏小田原城鬼門擁護の爲、平氏の大祖を勧請して、祈願所とせしと云、)例祭九月廿九日、(神輿巡行の儀あり、四神鉾弓鐵砲長刀鑓舞獅子立傘挟箱等ノ歯簿あり、引舞臺を出せり、曾我原村字神戸の内、殿澤川の涯にて神事を行ふ、)供免三石七斗餘を附す、(元和三年舊に依て除地とす、此時の御代官中川勘助某なり、)慶長中災に罹り、神寶等烏有となれりと云、
△鐘樓 鐘は明和七年の鑄造なり、
△末社 七座相殿(彦安明神・神明・淺間・辨天・山神・大國主尊・大代主命、)稲荷二
△神主尾崎雙 京吉田家の配下なり、(承應二年よりの免状を蔵す)中興の祖播磨と云、(新編相模国風土記稿より)
神奈川県神社誌による宗我神社の由緒
宗我都比古命は武内宿祢命の子孫にして大和国高市宗我郷に生る。時の天皇、勅して東夷の鎮めとされ、相模国足柄郡を開かれ給う。御代の内は東夷の災なく、一〇〇年の寿を保たれ、終に神去り又人皇六十九代後一条天皇長之元年十一月大和国高市郡宗我郷総鎮守となり、延喜式内官幣大社宗我都比古神社の神官宗我播磨守保慶社職を息保頼に譲りて当所に下り、祖先宗我都比古命の御霊を賀て時の天皇に奏請して武内宿祢命宗我都比古命を鎮め、宗我都比古神社の神号を請い長く当地曽我郷の総鎮守産土神として祭祀される。
北条氏稲葉氏大久保氏に相次いで尊崇される。(「神奈川県神社誌」より)
宗我神社の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿