佐奈田霊社|小田原市の名所旧跡

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

佐奈田霊社|佐奈田与一の塚と社殿

佐奈田霊社の概要

佐奈田霊社は、小田原市にある名所旧跡です。佐奈田霊社は、源頼朝が治承4年(1180)に挙兵、石橋山の合戦により戦死した佐奈田与一義忠を祀ために築造された与一塚のある地に建立された社で、佐奈田与一を祀っています。建久元年(1190)源頼朝が伊豆山権現を参詣した際当地に立ち寄り落涙したとされることから、与一塚は、佐奈田与一義忠没後ほどなく造られたものと思われます。現在石王山寶壽寺の飛地境内となっています。

佐奈田霊社
佐奈田霊社の概要
名称 佐奈田霊社
区分 県指定史跡
入場時間 -
入場料 -
住所 小田原市石橋420
備考 -



佐奈田霊社の由緒

佐奈田霊社は、源頼朝が治承4年(1180)に挙兵、石橋山の合戦により戦死した佐奈田与一義忠を祀ために築造された与一塚のある地に建立された社で、佐奈田与一を祀っています。建久元年(1190)源頼朝が伊豆山権現を参詣した際当地に立ち寄り落涙したとされることから、与一塚は、佐奈田与一義忠没後ほどなく造られたものと思われます。現在石王山寶壽寺の飛地境内となっています。

境内掲示による佐奈田霊社について

石橋山古戦場と佐奈田霊社
この附近は、源頼朝が治承4年(1180)以仁王の遺命を受けて平家追討の挙兵をした処である。このとき、相模の銘族三浦党の岡崎四郎義実や、園子真田(佐奈田)与一義忠も参陣した。しかし急の挙兵のため、頼朝軍は僅か300であり、攻撃の平家軍は大場景親以下3000であったため頼朝軍は忽ち苦戦となった。このとき真田与一は、15騎で剛勇俣野五郎の75騎と戦い、両将相討ちとなったが与一が勝ったか俣野は組み敷かれ、与一はこれを討とうとしたが刃に付いた血が固まり短刀がさやから抜けず手間取ったうちに駆けつけた敵のため25才の命を花と散らした。
与一の郎等文三家安は、主の討死を聞き群がる敵中に飛び入り主人の跡を追い討死した。この後、討死の地には与一塚が建てられ、与一を祭神とする佐奈田霊社が祀られた。
また、その先100mの処には、文三堂があるが共に今日県指定史跡となっている。霊社下の畑は、組討ちした処と伝えられねじり畑と呼ぶが、このためかこの畑の作物はすべてねじれてしまうとも伝えられる。
頼朝は、建久元年(1190)伊豆山権現参詣の帰途両基を訪れ、無き両人の忠節をしのび涙を流したと伝えられる。(境内掲示より)


小田原市掲示による佐奈田霊社について

石橋山古戦場と佐奈田霊社
「石橋山の合戦」(米神、石橋)は、治承4年(1180)、以仁王の命令を受けて挙兵した源頼朝が平家方の大場景親、伊東祐親らと戦ったところ。
佐奈田霊社は、頼朝方の先陣・佐奈田与一義忠の遺骸を葬ってある与一塚の傍らに建っていて、与一の戦死の故事に、せき・ぜんそくなどに霊験があると言われている。(小田原市掲示より)

新編相模国風土記稿による佐奈田霊社について

(石橋村)
佐奈田與一義忠墳
村南熱海道の側より石階四十二級を登り、丘上に老椙樹あり、是を與一塚と呼ふ、樹前に碑あり、佐奈田與一義忠墓、治承四庚子年八月廿三日夜と題す、こは稲葉美濃守正則の臣、田邊權太夫信吉の建る所なり、丘下の路側にねぢが畑と云る所あり、義忠俣野五郎景久と組打せし處といふ、又矢ノ根石と呼る巨石あり、義忠の射込し雁股の鏃痕と傳へ、石面に二穴あり、念佛坂の下に、矢附石と呼るあり、こは景久掌の痕とて、石面に殘れり義忠は岡崎四郎義實の長子なり、石橋山の役に、賴朝の先陣奉り、岡部彌次郎を討取、軈て俣野五郎景久と戰ひ、景久を組敷しに、長尾新六定景、落合て義忠を討取、義忠時に年二十五、同年九月、賴朝使を義忠母の許に遣し、彼が幼息等を當時賴朝の在所、下總の國に移らしむべきの由を命す、其後長尾定景獲られしかば、賴朝義忠を討取し事殊に奇怪なりとて、義忠の父義實に賜ふ、然るに義實が慈心を以て、却て賴朝に申請ひ養和元年七月、定景厚免を蒙れり、建久元年正月、賴朝伊豆權現へ参詣の路次、此墳を一覧ありて、懐古の情落涙數行に及ばる、八年義忠の冥福を修せられ、賴朝鎌倉郡本郷上之村に一寺建立あり、證菩提寺と號す、建保四年八月、右府實朝、北條相模守義時に命じ、彼寺にて義忠の追善を修せしめし事あり、僧義堂が【空華集】に、石橋山弔古の詩あり、毎歳八月廿三日、群詣の輩多く、禱賽には松炬を點じて墳前に手向るを例とす、<註:註釈を省略>(新編相模国風土記稿より)

佐奈田霊社の周辺図