徳川家康陣地跡の碑|小田原市の名所旧跡

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徳川家康陣地跡の碑|小田原市の名所旧跡

徳川家康陣地跡の碑の概要

徳川家康陣地跡の碑は、小田原市にある名所旧跡です。徳川家康陣地跡の碑は、豊臣秀吉の小田原北条攻めに際して、徳川家康が陣を張った当地に建てられた碑で、天保7年(1836)に建立されています。小田原北条攻めの天正18年(1590)、柳川和泉守泰久の宅地となっていた当地に徳川家康が110日ほど陣をを構えたと伝えられます。

徳川家康陣地跡の碑
徳川家康陣地跡の碑の概要
名称 徳川家康陣地跡の碑
区分 市指定文化財
入場時間 -
入場料 -
住所 小田原市寿町4-14-15
備考 -



徳川家康陣地跡の碑の由緒

徳川家康陣地跡の碑は、豊臣秀吉の小田原北条攻めに際して、徳川家康が陣を張った当地に建てられた碑で、天保7年(1836)に建立されています。小田原北条攻めの天正18年(1590)、柳川和泉守泰久の宅地となっていた当地に徳川家康が110日ほど陣をを構えたと伝えられます。

境内掲示による徳川家康陣地跡の碑について

徳川家康陣地跡の碑
この記念碑は、天正十八年(一五九〇)の小田原戦役の際、徳川家康が陣を張った跡に建設されたものです。
碑文は、小田原城主大久保忠真の作で、藩士岡田左太夫光雄に書かせ、天保七年(一八三六)九月十七日建立しました。
徳川家康は、この戦役に豊臣方の先鋒として、約三万人の兵を率いて出陣し、兵を三方に分けて箱根を越えました。
三島から宮城野を経て、明星岳を越え久野諏訪原に出た軍と、鷹ノ巣城(箱根町)を陥れて湯坂を越えた軍、そして足柄城(南足柄市)、新荘城(山北町)を陥れ、足柄越えした別の軍とが合流し、小田原城の東方のこの地に布陣しました。
陣所は、当時今井(現寿町)に住んでいた柳川和泉守泰久の宅地で、ここを本陣とし、北条氏が降服して開城するまで、およそ一一〇日間滞留していたといわれます。
なお、碑の形状等は、次のとおりです。
一、碑の総高 三三五センチ
一、碑石の高さ 二石五センチ
一、碑の幅・厚さ 幅一三〇センチ・厚さ二八センチ(小田原市教育委員会掲示より)


新編相模国風土記稿による徳川家康陣地跡の碑について

(今井村)
御陣場蹟
今村民市郎左衛門が宅地是なり、濶東西一町半、南北二町餘、廻りに土手あり、(高一丈餘、鋪八間)其外に堀蹟あり、(幅十二間餘、今は水田なり、)又西南の方數十歩を隔てば、惣構の土手蹟あり、(今は田間の小徑となる、)東の入口を御馬入場と唱へ、西の出口を御馬出し場と呼り、又東入口の外、南に寄て、御馬立場蹟あり、(今は陸田なり、)此地は市郎左衛門が祖、柳川和泉守泰久、住居せし時、天正十八年、東照宮御出陣に、彼が宅地を御陣所に定められ、百餘日御滞留あらせられし御舊蹟なり、
西の御馬出場の邊に、御馬繋松と云あり、(古松は枯て近き頃植繼しものなり、)御馬を繋がせられし所なり、又、御宮の傍に、御旗掛松と名くる老樹あり、(圍一丈三尺六寸餘、)御旗を立置れし所と云り、寛永七年、八木次郎右衛門重明等検地して、構内及外渠に至るまで合て二十二石四斗九升六合の高に結び、免除地とせられ、永く市郎左衛門の家に賜はれり、(新編相模国風土記稿より)

徳川家康陣地跡の碑の周辺図