小田原城跡|小田原市の名所旧跡

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小田原城跡|小田原北條氏の居城

小田原城跡の概要

小田原城跡は、小田原市にある名所旧跡です。小田原城の築城については不詳ながら、往古は小淘綾山・緑尾・山田城などと呼ばれていた当地を、第4代鎌倉公方足利持氏の頃は土肥党が領有していたといいます。応永23年上杉禅秀の乱に際し、領地を没収され、翌年大森式部大輔賴顯が当地を領有し城主となった記録が残され、以後大森氏が代々城主となっていましたが、伊豆韮山の領主伊勢新九郎長氏(北條早雲)が小田原に目を付け、明応4年(1495)小田原城を攻略、96年に亘る小田原北條氏の礎となりました。上杉謙信・武田信玄の城攻めにも耐えた小田原城でしたが、豊臣秀吉の小田原攻めにより天正18年7月に落城、以後徳川家家臣が城主を勤めてきました。明治維新により小田原城は明治3年に廃城、かつての広大な城郭はなくなりましたが、本丸周辺が復興され、国史跡に指定されています。

小田原城跡
小田原城跡の概要
名称 小田原城跡
区分 国指定史跡
入場時間 -
入場料 -
住所 小田原市城内、小田原城跡公園
備考 -



小田原城跡の由緒

小田原城の築城については不詳ながら、往古は小淘綾山・緑尾・山田城などと呼ばれていた当地を、第4代鎌倉公方足利持氏の頃は土肥党が領有していたといいます。応永23年上杉禅秀の乱に際し、領地を没収され、翌年大森式部大輔賴顯が当地を領有し城主となった記録が残され、以後大森氏が代々城主となっていましたが、伊豆韮山の領主伊勢新九郎長氏(北條早雲)が小田原に目を付け、明応4年(1495)小田原城を攻略、96年に亘る小田原北條氏の礎となりました。上杉謙信・武田信玄の城攻めにも耐えた小田原城でしたが、豊臣秀吉の小田原攻めにより天正18年7月に落城、以後徳川家家臣が城主を勤めてきました。明治維新により小田原城は明治3年に廃城、かつての広大な城郭はなくなりましたが、本丸周辺が復興され、国史跡に指定されています。

境内掲示による小田原城本丸について

小田原城本丸
小田原城本丸は、東西83間(約150m)、南北63間(114m)ほどの規模をもち、その西端に天守閣、中央にはかつて本丸御殿が存在しました。本丸の周囲は、石垣と土塀がめぐらされており、東南と北側に門が設置され出入りが制限されていました。東南側の門は、本丸の正面にあたる常盤木門、北側の門は、裏門にあたる鉄門とそれぞれ呼ばれています。
天守閣は、元禄16年(1703)の地震で、小田原城内の他の建物とともに倒壊・焼失しましたが、宝永3年(1706)に再建されました。以後、江戸時代を通じて存続しましたが、明治3年(1870)の廃城によって取り壊されました。現在の天守閣は、昭和35年(1960)に宝永年間の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に鉄筋コンクリート造で復興されたものです。
本丸御殿は、寛永11年(1633)に徳川家光が上洛に際して宿泊するために建設されたもので、元禄16年(1703)の地震により焼失して以来再建されませんでした。
元禄年間の姿を伝える宮内庁図には、本丸の南側に七本松と呼ばれた松が描かれていますが、現存する巨松(おおまつ)は、七本松の最後の一本で樹齢400年を越えるものです。
小田原城本丸一帯は、昭和34年(1959)、国史跡に指定され、貴重な文化財として保護・保存されています。(小田原市掲示より)

境内掲示による小田原城常盤木門について

小田原城常盤木門
本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも、最も大きく堅固に造られていた。古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かる。
元禄16年(1703)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に、多門櫓と渡り櫓から構成される枡形門形式で再建されたものが、明治3年(1870)廃城まで姿をとどめていたといわれている。
現在の常盤木門は、市制30周年事業として、明治時代初期に撮影された写真などを参考に再建したもので、昭和46年(1971)3月に完成した。
常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたといわれている。(境内掲示より)

境内掲示による本丸東堀跡について

本丸東堀跡
江戸時代の小田原城は、本丸を堀が囲んでいました。この絵図によると、堀は二の丸堀とつながる水堀となっています。発掘調査によって、この本丸東堀の位置が確認され、最も幅があるところでは20m以上もあることがわかりました。そこでこのたび、植木と盛り土により堀の形を表現し、整備しました。この堀を渡るために架けられていたのが常盤木橋で、水鳥の池は堀の名残といえます。(小田原市教育委員会掲示より)

境内掲示による小峯御鐘ノ台大堀切東堀について

小峯御鐘ノ台大堀切東堀
小峯御鐘ノ台大堀切は、東堀、中堀、西堀の3本からなる戦国偉大に築かれた空堀です。
北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁を構築し、その中に城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。
この大堀切東堀は、総構以前に構築された三の丸外郭に相当し、本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断しており、敵の攻撃を防御するために築かれた空堀です。総構とともに小田原城の西側を守る最も重要な場所えあったと考えられます。
東堀は、幅が約25~30m、深さは堀底から土塁の上面(天端)まで約12~15mあり、堀の法面は50~60度という急な勾配で、空堀としては全国的にも最大規模のものといえます。
発掘調査によると、堀には堀障子や土橋状の堀り残し部分のほか、横矢折れと呼ばれるクランク部分などが設けられていることが確認されました。こうした堀の構造は北條氏が積極的に用いたもので、戦国時代の小田原城の特色をよく残しています。(小田原市教育委員会掲示より)

新編相模国風土記稿による小田原城について

早川庄
小田原城
當城は郡の東にあり、其郭中のさま、東を首とし、西を尾とす、本丸・二丸・三丸・外曲輪等備はり、西北は山に據て固とし、東南の二方は平地にて侍屋鋪城下町等軒を連ねて、海濱に至れり、實に天然要害の地なり、當城の地、往古は小淘綾山松平其後緑尾山田城と唱へしと云、
築城の始を詳にせず、鎌倉管領足利持氏の頃は土肥黨の輩居住せしを、應永二十三年、上杉禅秀の亂に與して、沒収せられ、明年正月大森式部大輔賴顯に其闕地を賜り、當城の主となりし事所見あり、
其子信濃守賴春、管領足利成氏上杉氏と矛楯の時、父子當城に在て、上杉氏の下知に随ふ、其子信濃守氏賴入道寄栖庵に至り、關東次第に亂れ、兩上杉合戰止時なかりしに、寄栖庵武威盛にして、當城に住し、扇谷上杉氏の御方となり、古河政氏を輔て、管領家恢復のことを謀る、
然るに伊勢新九郎長氏豆州韮山に在て、上杉の分國を幷呑せんことを企て、先當城を乗取らんと、多年謀を廻らす、
明應三年氏賴卒去ありて、次男筑前守藤賴、其蹟を襲ぎ當城の主たり、
爰に於て、長氏謀を以て藤賴に親み、明年二月十六日、長氏當城に遷座りしかば、當國の住人松田左衛門賴重なるもの、最前に馳来て是に屬す、かくて長氏伊豆・相模兩國を平治し、姓を改て北條と號し、永く居城となせり、長氏延徳元年薙髪して、早雲菴宗瑞と號す、永正十六年八月十五日卒す、
其子左京大夫氏綱城主となり、天文十年七月十九日卒す、其子左京大夫氏康遺蹟を襲げり、十四年二月連歌師宗牧、當城に来り、氏康に謁見し、共に長老館にて櫻花を賞し、詩歌連歌等あり、宗牧登營する事都て三ヶ度なり、
永禄三年六月氏康落飾して、萬松軒と號し、嫡子左京大夫氏政家督を繼、當城の主たり、四年三月、上杉輝虎鶴岡八幡宮に参詣し、管領の拝賀を遂んが爲、小田原退治と稱し、先當城に發向す、北條方には、籠城の用意にて、悉く城内に引入しかば、輝虎蓮池門まで押寄、魁将太田三樂斎資正をして、城を攻しむ、城兵松田尾張守、小笠原播磨守以下打て出、相戰ふと雖利なくして、城中に引退く、輝虎總て退陣して、鎌倉に赴けり、
十二年八月、武田信玄當城に押寄せしに、北條方悉く城に籠り、合戰に及ばざれば信玄蓮池門揚土邊まで亂入し、十月に至るまで在陣して、府内町屋及び侍屋鋪等を放火し、同四日退陣せり、
十一月、豆相武三州の人夫を謀し、當城修理の事あり、
元亀元年十月三日、氏康卒す、天正元年氏政隠居して、截流斎と號し、其子左京大夫氏直家督を繼ぎ、當城の主たり、三年三月、小曲輪門々開閉等の掟書を出せり、七年五月、安藤豊前守良整奉り、鎌倉番匠を召て、城構の修造を加え、且城内修理の料として、良材を山奉行に課せらる、十五年二月、又城内修造のことあり、十六年七月、倉廩を城内に建ん爲に、材木を愛甲郡煤ヶ谷村に課せらる、
北條氏多年關左八州を押領し上洛にも及ばざれば豊臣秀吉、小田原退治の聞えあり、故に十八年正月より城の内外等に大に修造を加ふ、
三月秀吉洛を發向あり、やがて上方の大軍、駿州邊に押来り、充満せる由聞えければ、城中俄に防禦の手立をなし、大手口を始め、箱根・宮城野・湯本・竹花・井細田・久野・小峯・早川等の口々に人衆を配り、關左八州の軍勢数萬騎楯籠れり、然るに小田原の老臣、松田尾張守康秀の内通により、上方勢節所を打越、四月三日、御當家の先陣、小田原の地に至りて押寄る、四日、秀吉石垣山に本陣を居え、攻口の手配ありて、海陸並進て城を圍み、矢炮を放て是を攻む、城内にも大鳥銃を日夜放ち、嚴く防戰す、
八日、皆川山城守廣照私に城中を出、御當家に憑て降参す、五月三日城兵太田十郎氏房、廣澤尾張守重信をして、蒲生飛騨守氏郷の陣へ夜討せしむ、
十五日、東照宮宮兵を進められ、當城の築地に御陣を移さる十八日夜、秀吉の命に因て、諸陣數萬の鳥銃を一時に放て城中を劫す、城兵も同く鳥銃を放つこと徹夜なり、
六月五日、城兵和田三浦の輩百五十人、其營を自燒て遁出、松田尾張守憲秀、己が持口より敵兵を引入るべき陰謀を企つ、次男左馬介秀治の内訴により事覺して禁獄す、
又成田下總守氏長、秀吉に歸降の約ある事露顯して、禁錮せらる、
當城東方蘆子川表は、御當家の御責口なり、此川表に當て、篠曲輪(捨曲輪とも呼ぶ)と名付る出丸あり、山角上野介父子の持口なりしを、同廿二日井伊兵部少輔直政、松平周防守康重等攻入て合戰す、
七月二日夜、太田氏房春日左衛門尉同八郎二人を隊長として、再び蒲生氏郷の陣を襲はしむ、
其後秀吉中使を以て、和睦の事を調議す、
既に和談調し後、秀吉城中に使して、氏政父子を一旦出城あるべき由を告ぐ、
五日、氏直尾張守康秀を誅し、潜に出城して秀吉の軍門に降り、氏政以下の助命を乞、且明る六日出城すべしと約して歸城す、
六日北條美濃守氏規、東照宮の御陣營に来り、和融の事を議し、且秀吉の誓書を得て、入城せんとせしが、氏直既に降参の由を聞、空く韮山に歸る、
此日東照宮より井伊兵部少輔直政、榊原式部少輔康政・本多中務大輔忠勝、秀吉の臣脇坂中務大輔安治・片桐東市正直盛等をして、當城を請取しめらる、
明る七日より九日に至り、三日の間、七ケ所の城門を開き、諸卒悉く出城す、脇坂安治・片桐直盛是を監せり、
九日、氏政及弟陸奥守氏照出城して、醫師田村安斎が宅に移れり、
十日東照宮當城に遷らせらる、
十一日夜に入、田村安斎が宅に検使を遣し、氏政氏照兄弟に生害せしむ、
北條長氏明應四年、當城を攻取り、城主となりしより次第に武威さかんにして、關八州を領し、氏直に至るまで、都て五代、其間九十六年にして、終に滅亡に及べり、十二日、秀吉の命に依て、氏直紀州高野山に發路す、一門以下近臣三住人從卒凡三百人と云、此時東照宮當城總門におひて、氏直出城の體を御覧ぜらる、大道寺内蔵助某氏直に從ひ、路次を警衛し行を感ぜられ、すなはち召て拝謁をあまはり、後刀一腰を賜へり、又榊原式部大輔康政をして、氏直を高野山に送らしめたまふ、
十三日、秀吉城に入り、關東八州を以て東照宮に参らせらる、是に於て松平因幡守康元台命を受け、今月より十一月まで、城内にありて、萬事の仕置を掌り、又北條氏浪士の内、名ある士を召抱べきとの内命を蒙れり、
廿九日東照宮當城を御進發あり、
八月一日、武州江戸の城に遷らせ給ふ、此月大久保七郎右衛門忠世に當城を賜はり、四萬五千石を領す、蓋秀吉のすすめまいらせしに因て賜りしとなり、
文禄元年朝鮮の役に、東照宮二月五日、中原御宿殿より、當城に着御し給ふ、二年十月、御歸國に赴せ給ふの時、十月廿三日又着御あり、
三年九月忠世卒し、嫡子相模守忠隣家督を襲き、當城の守となり、七萬石を恩賜す、
四年五月、東照宮關東御下向の時、二十三日、當城に着御あり、七月關東秀次隠謀の聞えあり、御上洛の時、又御宿城となる、
慶長五年六月、上杉景勝御征伐の時、廿七日當城に着御、忠隣の嫡子加賀守忠常奔走し奉る、
九月、上方の凶徒御追討として、御進發の時、三日當城に御着陣あり、此時山内土佐守一豊、有馬玄蕃頭豊氏人質を當所に参らす、十年二月、台徳院殿御上洛の時、二十六日當城に着御、十月東照宮關東御下向の時、廿五日當城に入らせらる、
十五年十月、御放鷹の時、廿日着御、十六年十月、駿府より江戸入御の路次、九日當城に着御在せられ、忠隣を被召出、息加賀守忠常が所勞を御尋あり、本多佐渡守正信迎として、此所に参着、十一月御放高の路次、廿日御着御、忠隣喪明の憂にかゝり、御前に出仕せず、十七年三月十四日大徳院殿當城に着御、十八年九月、東照宮御放鷹の時、廿一日着御、本多佐渡守正信、加藤介左衛門御迎として、江府より参上、十二月忠隣をして京都に遣され、切支丹宗門の徒を追訴すべきの命あり、よりて忠隣江府を出て當城に歸し、旅装を支度す、
十九年正月十七丘、忠隣洛に赴けり、然るに忠隣故ありて御勘氣を蒙り、十九日忠隣の罪科を定め給ふ、
廿二日、安藤對島守重信到着して、當城を受取、高力左近太夫忠房、本多出雲守忠麻、牧野右馬允忠成等も共に此事を奉れり、此日東照宮江府を出御あらせられ、廿四日當城に渡御あり、今朝老臣連署の状を忠隣に遣はす、廿五日、台徳院殿にも渡御あらせられ、御閑談あり、事畢り城内二丸へ還御、廿六日、外郭を破却せらる、安藤次右衛門正次奉行たり、浅野采女正長重、松平越中守定綱、西郷若狭守正員等是を助く、廿七日、東照宮當城を御首送あり、駿府に還御、台徳院殿にも江府に歸御あり、
二月二日忠隣江州に謫せらる、是より御番城となり、藤田能登守信吉、松下石見守重綱、戸田丹波守康永、牧野右馬允忠成、北條出羽守氏繁、戸澤右京亮政盛、近藤平右衛門秀用、高木肥前守正成等相代て在番す、又大坂の役に、十月八日、松平右近将監成重、戸澤右京亮政盛、松平越中守定綱等命を蒙り、在番を勤む、廿三日台徳院殿洛を御下向の時、十四日當城に御止宿大坂夏の役に、西郷若狭守正員、當城を守る、
十日、台徳院殿江城御發駕、十二日當城に御着陣あり、
九月、東照宮御放鷹の爲に、駿府を出御あり、十月四日當城に着御、十二月、駿府へ歸御の時、十三日御着城あり、
三年二月、神柩久能山より日光山へ遷御の時、十八日當城に御滞留あり、廿日中原へ移らせ給ふ、
按ずるに元和元年より同五年まで、近藤石見守、秀用御城代たりしと見ゆ、茲年閏十二月阿部備中守正次に賜り、五萬石を領す、
九年五月、大猷院殿御上洛の時、當城御旅館となる、此夜内藤三十郎、鎮目半彌の二人、御勘氣を蒙れり、
今年正次武州岩槻城に得替せらる、是より又御番城となれり、寛永元年、近藤石見守秀用御城代たり、二年御居城を此地に築かるべき爲阿部四郎五郎正之仰を蒙り、當所に来る、翌三年又来ると雖、終に其事止らる、
八年高木主水正成御城代となる、九年十一月、稲葉丹後守正勝に賜り、八萬五千石を領す、此時土屋市丞勝正使節を奉り、當城を武勝に渡せり、是に於て正勝仰をうけ、城壘を修理す、十一年正月、正勝卒す、其子美濃守正則遺跡を相續し、城主となる、六月大猷院殿御上洛の序廿二日當城に着御あらせられ、正則御膳を献ず、将軍家和歌を詠ぜしめ給ふ、林道治信勝御前に伺候し、一絶を賦す、
翌廿三日御逗留あらせられ、又御咏吟あり、關東御下向の時にも、又御宿城となる、寛文三年二月八日、正則に一萬石の御加恩あり、新田を合せ都合十一萬七千石を領す、天和三年閏五月廿七日、正則領邑の内、一萬五千石を、庶子四人に分配して、隠居す、
息丹後守正通家督を襲ぎ、十萬二千石を領す、貞享二年十二月廿一日、越後國頚城郡高田に移封し、
三年正月廿一日、大久保加賀守忠朝に當城を賜はり、十萬三千石餘を領す、元禄七年四月廿一日、一萬石を加賜し、十一萬三千石餘を領す、十一年十月十六日隠居し、息隠岐守忠増家督、十一萬三千石餘を領し、新田一萬石を弟二人に配分、十六年十一月廿一日、地大に震し、當城回禄に罹り、城下家士の宅及民家悉く覆倒す、寶永四年。富士山焚燒の後領邑砂礫に埋まれしを以て、五年閏正月五萬六千三百石餘の地他所にて替地を賜はれり、正徳三年七月忠增卒し、九月息加賀守忠郁遺跡を繼ぎ、十一萬三千石餘を領す、六年三月、先に富士山焚燒の後賜りし替地を官に還入して、舊地を賜ふ、此より子孫相繼で今の加賀守忠眞に至れり、凡城垣の要害地理に至りては、禁忌に係れるを以て、詳にするを得ず、今古圖及舊記に載するものを鈔撮して、其大概を編録する左の如し、
〇本丸
〇二丸
〇三丸
〇辨天社
〇城米曲輪
〇雷曲輪
〇藍焇曲輪
〇鍛冶曲輪
〇小峰
〇濱手門
〇江戸口
〇上方口
〇水ノ尾口
〇早川口
〇井細田口
〇谷津口(新編相模国風土記稿より)


小田原城跡の周辺図