善照寺。齋藤別當實盛の次男長井齋藤六實正が創建
善照寺の概要
真宗大谷派寺院の善照寺は、威光院華英山と号します。善照寺は、長井之齋藤別當實盛の次男長井齋藤六實正(善照坊光栄)が、貞永元年(1232)に親鸞聖人の弟子となり、古新宿に創建、二世宗榮の時に一寺としたといいます。当寺10世宗榮は淺草新堀端善照寺を創建、明暦年間(1655-1657)当地を受領し移転しています。
山号 | 華英山 |
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院号 | 威光院 |
寺号 | 善照寺 |
本尊 | 阿弥陀来像 |
住所 | 小田原市浜町2-4-14 |
宗派 | 真宗大谷派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
善照寺の縁起
善照寺は、長井之齋藤別當實盛の次男長井齋藤六實正(善照坊光栄)が、貞永元年(1232)に親鸞聖人の弟子となり、古新宿に創建、二世宗榮の時に一寺としたといいます。当寺10世宗榮は淺草新堀端善照寺を創建、明暦年間(1655-1657)当地を受領し移転しています。
境内掲示による善照寺の縁起
善照寺
當山記録によると正式には威光院華英山善照寺と称す。「平家物語」にその活躍が描かれており又、能「實盛」の題材となった長井之斎藤別当實盛の次男、長井齋藤六實正が開基である。
◎貞永元年(一二三二)宗祖「親鸞聖人」に逢奉り未来の要法を聴聞して三十六歳にして弟子となり、善照坊光栄と法名を授けられた。
その後、小田原古新宿(大嶋)に一宇を創設して本尊、阿弥陀佛を安置したが、この地は海岸近くの為、たびたび海浪被害に遭った。
◎寛永十年(一六三三)城中城外ことごとく崩れる大地震や火災で當寺は焼失した。
◎明暦(一六五五~一六五七)稲葉三左衛門により華木護摩祈願の隣地を賜り本堂庫裏裏門を造営した。
◎貞享三年(一六八六)大久保加賀守殿この地に住居の為、當寺は西南の方に引移り仏尊を安置した。
◎文化十四年(一八一七)の火災により、隣地の蓮上院・當寺・三乗寺は残らず焼失し、その後五十年余りは仮堂であった。
◎慶應元年(一八六五)五間四面三方縁附後門後堂附本堂を建立した。
◎大正十二年(一九二三)関東大震災にて當寺は全壊した。
◎昭和六年(一九三一)當寺は再建し現在に至る。(境内掲示より)
新編相模国風土記稿による善照寺の縁起
(大工町)
善照寺
浄土宗、(東六條本願寺末、)華英山威光院と號す、開基善照坊光榮(正中元年正月廿三日卒、歳八十八、元禄中所記の縁起に、光榮は齋藤別當實盛の子齋藤六なりと云されど年代大に違へり、妄誕論を俟ず、若くは其子孫たる歟、)親鸞國府津施化けの時弟子となり、今の古新宿町に草庵を結べり、二世善榮に至り、就て一寺となせり、十世宗榮(實は江戸善福寺行宗の弟なり)江府淺草に一宇を建、亦善照寺と號し、彼所に移住し(淺草新堀端善照寺記に、天正十八年小田原陣の時、堂宇回禄に罹りしを以て、僧明信江府に一寺を建移住す、信は麻布善福寺十八世の弟なりと見ゆ、當寺傳と名違へり)、當寺は其子泰榮に譲れり、十三世傳榮の時、大地震し堂宇廢頽せしを以て、今の地に移ると云、本尊彌陀、又聖天(銅佛長三寸、實盛護持佛と云)を置、(新編相模国風土記稿より)
善照寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿