正恩寺。小田原市本町にある真宗大谷派寺院

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正恩寺。小田原市本町にある真宗大谷派寺院

正恩寺の概要

真宗大谷派寺院の正恩寺は、法性山妙賢院と号します。正恩寺は、平重盛の家臣だった平重好入道了順が、尾張国海東郡富田庄に創建、その曾孫専信の代に三河国額田郡土呂へ移転したといいます。大久保忠隣の室妙賢院が当寺の信賢に帰依していたことから、大久保忠隣の父忠世が小田原城主となった天正18年(1590)、当寺も小田原へ移転したといいます。

正恩寺
正恩寺の概要
山号 法性山
院号 妙賢院
寺号 正恩寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 小田原市本町4-5-7
宗派 真宗大谷派
葬儀・墓地 -
備考 -



正恩寺の縁起

正恩寺は、平重盛の家臣だった平重好入道了順が、尾張国海東郡富田庄に創建、その曾孫専信の代に三河国額田郡土呂へ移転したといいます。大久保忠隣の室妙賢院が当寺の信賢に帰依していたことから、大久保忠隣の父忠世が小田原城主となった天正18年(1590)、当寺も小田原へ移転したといいます。

境内掲示による正恩寺の縁起

正恩寺
正恩寺は、法性山妙賢院と号し、真宗大谷派東本願寺の末寺です。平重好入道了順が、尾張国(愛知県)海東郡富田庄に創建したもので、後に、専信の時、三河国(愛知県)額田郡土呂に移されました。天正18年(1590)、大久保七郎右衛門忠世が遠州(静岡県)二俣より転封されて小田原城主となった際、その子忠隣の室妙賢院(石川日向守家成の女)は、日頃より帰依する正恩寺の僧信賢を小田原に招き、文禄2年(1593)には三河の寺をここに移し菩提寺としました。よって信賢を中興開山とし、妙賢院を中興開基としています。このようなことから、当時から尾三相州転遷之道場と呼ばれています。
寺内本堂脇には、中興開基妙賢院(妙賢院円空禅尼、寛永元年9月28日卒)の墓所と、その傍らに、忠臣杉浦惣左衛門政吉の墓があります。近年、作家吉川英治の先祖(小田原藩士)の墓が寺内墓地から発見されました。
入口の鐘楼門は、平成4年11月2日、市指定文化財に指定されています。(境内掲示より)

新編相模国風土記稿による正恩寺の縁起

(茶畑町)
正恩寺
浄土眞宗、(京六條本願寺末、)法性山妙賢院 (注釈を読む)
と號す、寺傳に平重好入道了順、(小松内府平重盛の臣、)尾州海東郡富田庄に起立す、其孫長顯の時、本山證如に謁し師資の約をなし、法名順誓、寺號を正恩と賜ふ、順誓の子専信、事縁により三州額田郡土呂に移住す、信子なきを以て、本山教如の命により、同州針崎勝曼寺の次子信賢を養子となし住職を襲ふ、時に大久保相模守忠隣妙賢院、信賢を歸依し、天正十八年小田原に招き、城内に在しむ、文禄二年三月三州の寺を當所に移し、殿堂建立し、菩提寺となす、(故に今尾三相の三州轉遷の道場と稱す、)元和二年飛椽出仕のこと、本山より許可す、(免状曰、連々依望、其方飛椽出仕之儀、被成御免候云々、元和三年辰卯月二日、相州小田原正恩寺、粟津大進法眼花押、)因て信賢を中興とし、(寛永十一年正月廿三日卒、)妙賢院を中興開基とす(妙賢院圓空禅尼、寛永元年九月廿八日卒、當山に葬る、按ずるに禅尼は石川日向守家成の女、)本尊彌陀は、(長一尺六寸三分、惠心の作)妙賢院の看經佛なり、歿後寄附、此時本山よりの免状あり、 (注釈を読む)
舊本尊は内佛に安置、(長九寸、烏佛師作、)平重盛崇敬の佛體にして、了願傳来の像と云、これも免状あり、(曰、元来之木佛、願之通内佛え被成御免候間、可被得其意仍而被願御印者也、八月廿一日、小田原信玄、粟津勝兵衛花押、)又高祖影像(無圖畫の影像と稱す、天正九年九月十三日、大坂石山に於て、教如より兵亂扶持の功に依て、順誓に附屬せしものなり、)を安ず、
【寺寶】
△九字名號一幅(親鸞筆)
△正信偈文(各四句)二幅(蓮如筆)
△七條袈裟一頂(地は舶来にて、あんらくあんふたへつると云物なりと云、)
△念珠一聯(茶色の水晶玉にて造る、以上四種は、證如より順誓へ授與の物なり、)
△職人歌合十二幅(後陽成院の宸翰にて、畫は古土佐の筆と云、屏風一雙に押べき料なり、)
△太刀一腰(天國作、中心を合て三尺二寸五分、以上二種は、元和二年大久保忠隣寄附、)
△大鐘。樓門上に掲ぐ、寛延三年鑄造、(新編相模国風土記稿より)


正恩寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿
  • 「全国寺院名鑑」