万松院。松平信康を鎮めるために、大久保七郎右衛門忠世が開基
万松院の概要
曹洞宗寺院の万松院は、清瀧山と号します。万松院は、遠江二俣城で自決した徳川家康の子松平信康を鎮めるために、大久保七郎右衛門忠世が開基となり、三河国吉田龍拈寺七世勅特賜法輝圓明禅師(慶長7年1602年卒)を開山に迎えて創建したといいます。
山号 | 清瀧山 |
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院号 | 万松院 |
寺号 | - |
本尊 | 聖観世音像 |
住所 | 小田原市風祭863 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
万松院の縁起
万松院は、遠江二俣城で自決した徳川家康の子松平信康を鎮めるために、大久保七郎右衛門忠世が開基となり、三河国吉田龍拈寺七世勅特賜法輝圓明禅師(慶長7年1602年卒)を開山に迎えて創建したといいます。
新編相模国風土記稿による万松院の縁起
(風祭村)萬松院
祝融山と號す、曹洞宗、参州吉田龍拈寺末。開山白州巌龍、本寺七世勅特賜法輝圓明禅師、慶長七年二月十五日卒。開基大久保七郎右衛門忠世、了源院日脱と諡す、文禄三年九月十五日卒。本尊聖観音。
薬師堂。
白山社。
山神社。社邊に俵石と唱ふる石三あり、其形俵に似たり。
大澤次郎左衛門正秀墓。境内にあり、法名自得寺泰巌宗安、元和八年正月八日卒。寛永譜曰、正秀初織田信長に仕へ、信長生害の後浪人となり、豊臣秀吉同秀次に仕て、二千六百石を領す。後又浪人して小田原に
住す。此時東照宮大久保相模守忠隣を御使として召出さるべき命ありしに、俄に病て死す、時に七十六歳、法名泰閑と號す。又家譜に掾に、正秀信長生害の後浪士となり美濃國に住す、關原の役、父子五人戦場に赴き、軍功を顕す嫡子新十郎、二男又十郎、及家従戦死す、東照宮御感あり、召出さるべきの懇命を蒙り、相州箱根の麓風祭萬松禅院に住して、台命を待つ、其後榊原康政、大久保相模守忠隣訪来、台命を傳へ、幕府に召さるべきと云、翌日次郎左衛門頓死すとあり、共に卒年を漏せり、されど此文に掾ば、寺傳に元和八年死すと云ものは誤なり。
又同次郎左衛門正重の墓あり、法名傑叟長英、寛永二年七月十七日卒。寛永譜に依に、正重は東照宮台徳院殿に奉仕、大坂御陣に供奉す、其後大猷院殿の釣命を奉り、大御番組頭となる、寛永二年四十一歳にして死す、又家系に掾に、正秀の三男又三郎某、父の由緒を以て、慶長年中召出され六百五十六石餘を拝領し、大御番を勤む。大坂両度の御陣に戦功を顕し、凱旋の後、大御番組頭となる。寛永二年七月十七日歿。今も其子孫旗下の士大澤主馬より香火の酋あり。(新編相模国風土記稿より)
万松院所蔵の文化財
- 松平信康の供養塔(五輪塔)
- 本能寺の変の後浪人となった大澤正秀墓
- 荻窪用水の遺構
万松院の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿