寶金剛寺。小田原市国府津にある東寺真言宗寺院

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寶金剛寺。小田原市国府津にある東寺真言宗寺院

寶金剛寺の概要

東寺真言宗寺院の寶金剛寺は、国府津山醫王院と号します。寶金剛寺は、弘法大師の十大弟子の一人杲隣大徳が開基となり天長6年(829)に創建したと伝えられ、地青寺と号していたといいます。後奈良帝の勅命により、弘治2年(1556)現寺号に改号、永禄年間(1558-1570)に足利晴氏が疾病した際には北條氏康の命により百座の修法を執行、北條氏康が疾病した元亀元年(1570)にも百座の修法を執行したといいます。歴代領主より寺領の保護を受け、徳川家康が関東入国した際には天正19年(1591)22石の御朱印状を受領、近郷に末寺門徒寺31ヶ寺を擁してました。

寶金剛寺
寶金剛寺の概要
山号 国府津山
院号 醫王院
寺号 寶金剛寺
本尊 地蔵菩薩像
住所 小田原市国府津2038
宗派 東寺真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



寶金剛寺の縁起

寶金剛寺は、弘法大師の十大弟子の一人杲隣大徳が開基となり天長6年(829)に創建したと伝えられ、地青寺と号していたといいます。後奈良帝の勅命により、弘治2年(1556)現寺号に改号、永禄年間(1558-1570)に足利晴氏が疾病した際には北條氏康の命により百座の修法を執行、北條氏康が疾病した元亀元年(1570)にも百座の修法を執行したといいます。歴代領主より寺領の保護を受け、徳川家康が関東入国した際には天正19年(1591)22石の御朱印状を受領、近郷に末寺門徒寺31ヶ寺を擁してました。

新編相模国風土記稿による寶金剛寺の縁起

(國府津村)
寶金剛寺
國府津山醫王院と號す、眞言宗古義、(京都東寺寶菩提院末)近郷三十一寺の本山なり、昔は地青寺と稱せしを、(所蔵文書弘治元年五月の文書に、地青寺と見ゆ、)弘治二年、後奈良帝の勅によりて、今の寺號に改むと云、開山杲隣、(貞和十一年十一月七日卒、)久安元年僧一海中興す、(治承三年九月廿六日卒、)本尊地蔵、(聖徳太子作、木立像、長一尺六寸、帯解地蔵と稱す、寺傳に小松内府重盛此地蔵を信仰有て、治承二年十一貫二百文の寺産を寄附すと云、)又不動を置、(智證大師作、長二尺五寸、)弘治元年五月、小田原評定衆石巻下野守康保奉りて、當所の寺社修造の時召仕ふべき番匠の事を令す、(注釈を読む)
永禄年間、足利晴氏疾病なしり時、北條氏康當寺をして、百座の修法を執行せしむ、(注釈を読む)
元龜元年、北條氏康の疾重りし時も、亦百座を修せり、(注釈を読む)
天正七年の頃、寺域の名木、小田原城内の庭中に移すべきの命あり、(注釈を読む)
同十四年三月、板部岡江雪斎成奉りて、寺内不入の制札を出す、(注釈を読む)
且寺領十一貫二百文、前々の如く所務すべきの旨、北條氏直下知を加ふ、(註釈省略)
同十九年十一月、先規に任ぜられ、護摩堂領として廿二石を賜ふ、(注釈を読む)
【寺寶】
△古文書五通(全文既に前に註記す、)
△不動畫像一幅(弘法大師筆、)
△護摩堂 本尊薬師、(智證大師作、長一尺六寸、)脇立日光、月光、及愛染、(長五寸五分、是も智證作、)多門天(弘法大師長九寸)等を安ず、(按ずるに、【小田原記】及天正の文書、且御朱印の面にも、國府津護摩堂を以て、通稱となす時は、此堂即本堂なり、)
△鐘樓 寛文三年の鑄鐘を掛、
△稲荷社 本地十一面觀音を置、(新編相模国風土記稿より)


寶金剛寺所蔵の文化財

  • 薬師如来像(国指定文化財)
  • 大日如来像(国指定文化財)
  • 地蔵菩薩像(神奈川県指定文化財)
  • 不動明王及び両童子(神奈川県指定文化財)

寶金剛寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿