真楽寺。親鸞聖人開山
真楽寺の概要
真宗大谷派寺院の真楽寺は、勧山信楽院と号します。真楽寺の創建年代等は不詳ながら、(仏教を採り入れた)聖徳太子を開基とする天台宗寺院として創建、親鸞聖人が関東遊化の際、時の住僧性順は親鸞聖人に帰依、寺を親鸞聖人に譲り、親鸞聖人が嘉禄2年(1226)浄土真宗寺院として開山したといいます。
山号 | 勧山 |
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院号 | 信楽院 |
寺号 | 真楽寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 小田原市国府津3-2-22 |
宗派 | 真宗大谷派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
真楽寺の縁起
真楽寺の創建年代等は不詳ながら、(仏教を採り入れた)聖徳太子を開基とする天台宗寺院として創建、親鸞聖人が関東遊化の際、時の住僧性順は親鸞聖人に帰依、寺を親鸞聖人に譲り、親鸞聖人が嘉禄2年(1226)浄土真宗寺院として開山したといいます。
「川東仏教会寺院名鑑」による真楽寺の縁起
親鸞聖人ゆかりのこの寺は、勧山と号する真宗大谷派の寺院であるが、往古は聖徳太子の所縁によって創建された天台宗の寺院であった。のち親鸞聖人が関東の教化を終え、帰路の際に当地に立ち寄られた時、当時の住僧性順がその教法に導かれ、真宗の教えに帰依して一宇を建てたのが、この寺のはじまりとされている。
寺号もその時、聖人に「真楽寺」と命名してもらったといわれている。
寺内の帰命堂には、帰命石と呼ばれる2メートルほどの石があるが、これは聖人が石に指頭で名号を書かれたといわれるので”帰命石”と呼ばれている。
山門の国道をはさんで南側袖が浦の海岸に勧堂がある。これは親鸞聖人草庵の旧跡で、ここで聖人が7年間、民衆を教化されたと言伝えられている。勧堂の名も聖人のこの事績に基づいてつけられたものである。
なお寺内の菩提樹は、小田原市の天然記念物に指定されている。(境内掲示より)
新編相模国風土記稿による真楽寺の縁起
(國府津村)
眞樂寺
勸山(須々女左牟)信楽院と號す、浄土眞宗、(東本願寺末、)本尊阿彌陀、(木佛立像、親鸞作、長二尺九寸、)聖徳太子の開闢にして、天台宗の古刹なり、安貞の頃親鸞當國化益ありし時、現住性順、師資の約をなし、一堂を(今の勸堂なり)建て是に移り親鸞をして當寺に住せしむる事七年、夫より親鸞寺務を上足顯知に譲りて歸洛ありしと云、故に親鸞を開山とし、顯知を二世とし、三世は是證と云り、(正和四年七月十六日卒平大納言時忠の男、母は下河邊庄司行光の娘なりと云、)中興超傳、(延寶六年七月廿日卒、)慶安二年十一月、境内四石の御朱印を賜ふ、
【寺寶】
△彌陀畫像一軸(親鸞筆)
△同一軸(顯如筆、裏書に法便法身の立像本願寺顯如、判あり、)
△謡譜一巻(蓮如の作と云、當寺親鸞の舊跡たる来由を謡曲に作り、道俗を勸導せしものなり、題號は國府津とあり、眞蹟は失ひて、今は刻本のみなり、)
△親鸞分骨一粒
△聖徳太子二歳の肖像一軀(親鸞作)
△同像一軀(惠心作)
△阿彌陀像一軀(傳教大師作、)
△六字名號二幅(一は法然筆、一は蓮如筆、)
△唐錢二文(一は大定の字及鶴龜の形を鑄出す、一は和同開珎と鑄れり)、
△禁制書一通(豊太閤小田原陣の制札なり、相模國西郡内國府津郷眞樂寺、幷門前共にとあり、)
△重匣一組
△服紗二條(以上二品は、大猷院殿の賜物と云、御紋散しなり、本山門主歸命堂に参拝の時、饗應するに此二品を用ゐる、)
△歸命堂 寛永十三年、本山宣如上人の造建なり、名號石(高七尺、幅三尺、)を安置せり、その圖左の如し、
此の名號は、親鸞當所居住の頃、勸堂の下へ一切經を積し唐船着岸す、舟底に石八枚を積めり、親鸞歸洛の時末世道俗の爲に、其石に指頭を以て、二名號を書せり、(或説に此石に怪異の事共ありければ、土人親鸞に請て二名號を書せしめしかば、怪異忽ち止まれりと云)
建武中、本山三世覺如上人巡國の時、拝蘭し、則左右の傍記を加へしと云、(後其文字を直に鐫入す、)本山門主江府参向の時は、必ず参拝あり、(此時門主を饗應するに、黍稗米の三品を團子に製し、且砂蕎麦と號し、製方の慥なる蕎麦切を進め、又土地にて醸せる野酒を捧ぐるを例とす、是古へ宗祖の難苦を知しめんが爲めなりといへり、)堂前に石燈籠一對あり、(寛永九年仲秋寄附、本多三彌左衛門藤原正友と彫る、)
△鐘樓 春日局建立と云傳ふ、
△菩提樹 親鸞手植のものと云(圍七尺)(新編相模国風土記稿より)
真楽寺の周辺図
参考資料
- 「川東仏教会寺院名鑑」
- 新編相模国風土記稿