本久寺。小田原市中町にある日蓮宗寺院

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法光山本久寺。武藤治部少輔清康が開基

本久寺の概要

日蓮宗寺院の本久寺は、法光山と号します。本久寺は、武藤治部少輔清康(法久禅門)が日蓮宗に帰依し、邸宅内に法華堂を建立、正応2年に武藤清康が逝去した際法華堂を改め法久寺と号したといいます。京都本圀寺日傳の命により、本山六光山本圀寺の山寺号と法久の字を組み合わせて法光山本久寺と改号しています。

本久寺
本久寺の概要
山号 法光山
院号 -
寺号 本久寺
本尊 曼荼羅
住所 小田原市中町3-11-57
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



本久寺の縁起

本久寺は、武藤治部少輔清康(法久禅門)が日蓮宗に帰依し、邸宅内に法華堂を建立、正応2年に武藤清康が逝去した際法華堂を改め法久寺と号したといいます。京都本圀寺日傳の命により、本山六光山本圀寺の山寺号と法久の字を組み合わせて法光山本久寺と改号しています。境内北辰殿は、江戸期には妙見堂と記載され、武藤治部少輔清康の守本尊といいます。

「日蓮宗寺院大鑑」による本久寺の縁起

弘安5(1282)年の創立。開山日満。開基檀越武藤清康法久禅門。筵師法縁。宗祖往来の節、武藤氏一族が帰依し邸内に法華堂建立、駿河より日満を招く。正応2年に法華堂を法久寺と改称、のち本圀寺5世日伝の命により本圀寺の山寺号と法久の字を用い法光山本久寺と改称。寺内に開基清康の守本尊北辰妙見尊を勧請する。(「日蓮宗寺院大鑑」より)

新編相模国風土記稿による本久寺の縁起

(中島村)
本久寺
法光山と號す、日蓮宗、(京六條本國寺末、)元龜四年二月、住僧の記せし傳記、及開基の系圖(當寺所蔵、)を閲するに、往古小田原の住人、武藤治部少輔清康と云者あり、後入道して法久禅門と稱す、(大織冠鎌足十九代の孫、伊豆國押領使、工藤の祖維織の第二伊豆守維眞と云ものあり、初て相州小田原に住す、其子工藤民部大夫維資、其子工藤兵衛維光、維光の子大蔵允光行始て武藤と稱す、清康は光行の孫なり、)
日蓮、宗法弘通の路次、法久の宅に寓居ありて、聞法皈依の餘り、宅地に小堂を營み、法華堂と稱し日満(駿州豊後房)を招て時々法華を講せしむ、満佐渡に赴くの後、日善(日朗の上足、大法房と云)を堂主とす、繼て日善發願して大堂を建立せしかば、法久田園を寄せ(東西六十間、南北百間餘と云、)弘安五年九月、日朗を導師として供養す、正應二年三月二日、法久卒し、五七日に當て法華堂を改て法久寺と號す、夫より五十餘年を歴て、本寺の山寺號を(六光山本圀寺)摘擧し、法久の二字に配し、今の山寺號となす、(此時本山日傳の命を得て六條門末の僧録となり、且六條の別號を許せしとなり、)世降り寛正中兵火に罹り、堂宇廢却せしかば、明應中日了、(本山十二世)日澄(豆州韮山本立寺住僧)に課して當山六世に補し、當村の閑地を撰て堂宇を再興し、漸く舊貫に復すと云因て日満を開山、(元應元年正月廿八日卒、)法久を開基、(法名法久寺殿蓮秀一儀、)日澄を中興と稱す(永正七年三月九日、駿府安立寺にて卒、)本尊三寶諸尊、及祖師を安す、
△稲荷社
△妙見堂
△鐘樓。鐘は享保八年九月鑄造、
△櫻樹。旗櫻と唱ふ(の中に、旗の形をなすものあり故に名く、古木は圍三尺五寸、文化中災に罹り今襞生す、)
△子院法泉坊。三十番神の畫像のみを安ず、(新編相模国風土記稿より)


本久寺の周辺図


参考資料

  • 「日蓮宗寺院大鑑」
  • 新編相模国風土記稿