延清山妙了寺。開基檀越武藤治部少輔清康
妙了寺の概要
日蓮宗寺院の妙了寺は、延清山と号します。妙了寺は、武藤治部少輔清康の外護を得て、中老僧豊後阿闍梨日満聖人が九老僧日善聖人と共に開山、その後鎌倉妙法寺の円明院日朝上人が中興したといいます。江戸期には旗本大御番組頭の鵜殿惣右衛門尉氏信(法名徳本院)の寄進を得て本堂・書院などを再建しています。
山号 | 延清山 |
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院号 | - |
寺号 | 妙了寺 |
本尊 | 曼荼羅 |
住所 | 小田原市延清136 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
妙了寺の縁起
妙了寺は、武藤治部少輔清康の外護を得て、中老僧豊後阿闍梨日満聖人が九老僧日善聖人と共に開山、その後鎌倉妙法寺の円明院日朝上人が中興したといいます。江戸期には旗本大御番組頭の鵜殿惣右衛門尉氏信(法名徳本院)の寄進を得て本堂・書院などを再建しています。
「日蓮宗寺院大鑑」による妙了寺の縁起
(大観には、正応2(1289)年2月の創立。開山日満とある)(「日蓮宗寺院大鑑」より)
「神三寺院ぶっく」による妙了寺の縁起
正応2年(1289)に、豊後阿闍梨日満聖人(阿仏坊の御孫で中老僧)が二祖九老僧日善聖人と共に開山、開基檀越武藤治部少輔清康の外護により開山。その後盛衰あり。六祖鎌倉妙法寺円明院日朝上人(本山本立寺)は、小田原巡錫の時荒廃する姿をご覧になり、中興されたと伝えられる。江戸初期の領主徳川の縁者鵜殿惣右衛門尉氏信(寛文11年亡)が本堂・書院などを寄進し新たに再興を果たし、更に享保3年(1718)に、19世持心院日栄上人本堂再建、明治3年台風により火災に罹る。(「神三寺院ぶっく」より)
新編相模国風土記稿による妙了寺の縁起
(延清村)
妙了寺
延清山と號す、法華宗、(京都本圀寺末、)開山日澄、(圓明院と號す、永正七年三月九日卒、)中興開基日榮、(享保二十年正月十三日卒、)本尊三寶祖師、
△鵜殿氏墓。二基あり、一は本尊院、明暦四年七月九日、一は徳本院、寛文十一年五月七日と彫れり、(注記を読む) (新編相模国風土記稿より)
妙了寺の周辺図
参考資料
- 「日蓮宗寺院大鑑」
- 「神三寺院ぶっく」(日蓮宗神奈川県第三部布教師会)
- 新編相模国風土記稿