玉寳寺。五百羅漢、垪和伊豫守が母追福のために創建
玉寳寺の概要
曹洞宗寺院の玉寳寺は、天桂山と号します。玉寳寺は、後北條氏の家臣垪和伊予守(天桂寺殿活翁宗漢居士)が、母玉寶貞金大姉の追福の為、天文3年(1534)に創建、香雲寺4世實堂が開山したといいます。当寺の五百羅漢像は、当地の檀家添田氏兄弟が造立したもので、兄(智鉄須弥)が僧籍に入り勧進したものの果たせず、弟(真澄)も僧籍に入って遺志を継ぎ、宝暦7年(1757)に完成させたといいます。
山号 | 天桂山 |
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院号 | - |
寺号 | 玉寳寺 |
本尊 | 釈迦如来像 |
住所 | 小田原市扇町5-1-28 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
玉寳寺の縁起
玉寳寺は、後北條氏の家臣垪和伊予守(天桂寺殿活翁宗漢居士)が、母玉寶貞金大姉の追福の為、天文3年(1534)に創建、香雲寺4世實堂が開山したといいます。当寺の五百羅漢像は、当地の檀家添田氏兄弟が造立したもので、兄(智鉄須弥)が僧籍に入り勧進したものの果たせず、弟(真澄)も僧籍に入って遺志を継ぎ、宝暦7年(1757)に完成させたといいます。
境内掲示による玉寳寺の縁起
天桂山玉宝寺(曹洞宗)
後北條氏の家臣垪和伊予守(天桂寺殿活翁宗漢居士)が、母玉宝貞金大姉の追福の為、天文3年(1534)に開いた寺であると伝え伊予守と母との法名をとって山寺号としたのである。なお、この裏山の尾根筋は中世小袿の多古城の跡があって、寺と城には、浅からぬ関係があると考えられる。
また、当寺は、五百羅漢を安置する寺として知られ多くの人々は寺名を呼ばないで、多古の五百羅漢という。像は木彫で立像のものは像長36~60センチ、座像のものは20センチ余である。造立の始まりは享保15年(1730)で、檀家添田氏の夢枕に隣村塚原の地蔵尊が立って造立を勧めたとも、また添田氏がある時秋の洪水で大きな流木を拾おうとすると大蛇であったので殺した処、夜間に無数の小蛇に襲われた夢を見て、一念発起したともいわれる。添田兄弟のうち兄は、僧籍に入り智鉄須弥となり七年勧進し170体を造ったが、中途で病没したので弟の真澄が後をつぎ宝暦7年(1757)に完成し、寺に安置したという。(境内掲示より)
新編相模国風土記稿による玉寳寺の縁起
(多古村)
玉寶寺
天桂山と號す、曹洞宗(大住郡田原村香雲寺末)、天文三年起立す、開山實堂(本寺四世、永禄七年九月十一日卒)、開基玉寶貞金大姉(卒年及事跡を傳へず、六日を命日とす、)及垪和伊豫守某なり(其牌に天桂寺殿活翁宗漢居士と記す、卒年詳ならず、命日は十日なり、永禄二年九月、垪和伊豫守氏續、寺領寄附の状に、爲祖母玉寶貞金、前伊豫守、於御門前十貫文之所、於寺領被附置候、於自分、彌長相違申間鋪者也と見ゆ、是に據ば、伊豫守某、其母玉寶の爲に、當寺を造立せしなり、故に此二人を開基と稱せるなるべし、垪和は北條氏の家士なりと云、【役帳】に載る、垪和又十郎・同彦十郎等の一族ならん、)、本尊釋迦、又五百羅漢の木像を置(立像長一尺二寸より二尺に至る、座像長七八寸)、此像は享保十五年、僧智鉄(當村の産)、造立のことを企てしが、果さずして歿す、其弟僧眞澄、其志を續き造立して、寶暦七年當寺に安ず、毎年四月八日、大般若經轉讀あり、此日近郷の僧俗群詣す、
【寺寶】△寺領寄附状一通(永禄二年丁巳九月十一日、玉寶寺へ参、垪和伊豫守氏續花押あり、其文は上に抄載す、)
△鐘樓。寶暦十二年の鐘なり、
△觀音堂 辨天社(新編相模国風土記稿より)
玉寳寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿