玉伝寺。小田原市城山にある法華宗系単立寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

玉伝寺。ういろうの祖宇野藤右衛門定治が開基

玉伝寺の概要

法華宗系単立寺院の玉伝寺は、光浄山三寳院と号します。玉伝寺は、外郎鐵丸(ういろう)の祖宇野藤右衛門定治が開基となり、身延山十三世寳聚院日傳が大永2年(1522)に起立、宝永4年早川口から当地へ移転したといいます。

玉伝寺
玉伝寺の概要
山号 光浄山
院号 三寳院
寺号 玉伝寺
本尊 三寳四菩薩諸尊及祖師
住所 小田原市城山4-22-21
宗派 法華宗系単立
葬儀・墓地 -
備考 -



玉伝寺の縁起

玉伝寺は、外郎鐵丸(ういろう)の祖宇野藤右衛門定治が開基となり、身延山十三世寳聚院日傳が大永2年(1522)に起立、宝永4年早川口から当地へ移転したといいます。

玉伝寺資料による玉伝寺の縁起

光治山玉惇寺は別名を三宝院とも言います。外部家五代目当主陳外郎宇野大和守藤右衛門定治が日蓮宗に掃依し外郎家の菩提寺として現在の早川口付近に一寺を建立し、身延山から第十三世日傳上人を招いて開山住職と致しました。時に大永二壬午年(一五二二〉でした。日傳上人は当山に来られるにあたって、身延山守護の七面大明神の一木二体(一本の木から二体の仏像をこしらえた)のお像の一つを背負われておいでになり、お祀りされました。以後玉傳寺は身延の別院とされ、本山身延に対しても諸役免除の特別待遇をうけた別格の寺です。
当時は数万坪の敷地をもって沢山の伽藍があったと伝えられています。北条氏の滅亡した後には地震によって崩壊したり一部津波に洗われる等のこともありましたが、七面大明神の御像は無事に今日まで伝えられております。江戸時代に入り、寛永一四(一六三七)年、外郎家第八代外郎藤右衛門光治の時、小田原藩主、稲葉英濃守正則公より藩の練兵場をつくる必要のため、山角町の山手の北条時代米倉のあった土地の寄進をうけ、移転致しました。当時は末寺七ヶ寺あったといい、明治維新まで三ヶ寺を有しておりました。
当寺の日蓮上人の御像は中山法華経寺開山、日常上人の作られたものです。日常上人は下総国の領主富木胤継という人で、出家して日蓮上人の弟子となり、聖人の身近に仕えた方です。このため明治時代文部省が国定教科書を作るとき、この像が生の日蓮上人のお姿を最もよく写しているものとして、この像を教科書に載せました。
なお玉傳寺に鬼子母神がお祀りしてございますが、日蓮上人の小松原法難の際、鬼子母神が示現されたので、日蓮宗で大事な厄除けの神様としてお配りするようになったのです。(玉伝寺資料より)

新編相模国風土記稿による玉伝寺の縁起

(山角町)玉傳寺
法華宗、身延久遠寺末、光浄山三寳院と號す。大永二年寳聚院日傳起立す、身延十三世、天文十七年十二月十一日卒。開基は宇野藤右衛門定治なり、法名寳如院蓮真、弘治二年十一月二十四日卒、欄干橋外郎鐵丸の祖なり。元は早川口の邊にありしが、宝永四年稲葉美濃守正則、此地を寄附して引移す、正則の寄附状今に蔵す。且此時越田邊権太夫信吉、堂宇を建。稲葉氏の臣、寛永十五年十一月十三日卒。當所は北條氏の時倉庫ありし所と云。按ずるに天正十八年、小田原落城の頃、豊臣秀吉小田原の粮米数十倉を、東照宮に贈り奉りし事あり。大三川志曰、天正十八年七月十四日、是より先き秀吉小田原の粮米数十倉を神祖へ贈る、神祖伊奈熊蔵忠政をして其粮米を監し領受せしむ、忠政秀吉の監使に會して是を告ぐ。監使倉庫を開き、悉く其俵数を改め授んとす。忠政が曰、軍事既に終ると雖ども、未繁多なれば、日を費し事を妨んこと不可也とて、諸倉の戸に印封をなし、唯倉庫の数を改て是を受く。因て一日にして終る、監使江戸に到て秀吉に達す、秀吉其授受の速なるを疑ふ、監使忠政が干戈の際日を費すの不可なるを以て、印封を為て授んことを議す、因て是に従ふと云ふ。秀吉関を拍て大に嘆ず、此地すなはち其倉庫の蹟なるにや。中興僧院乗院日運、元禄五年六月廿日卒。本尊三寳四菩薩諸尊及祖師、中山法華経寺開山日常作、長一尺二寸を安ず。
寺寳。
古文書三通、制札二通。曰、禁制、於寺内竹木草花剪取事、旅人宿之事、諸人狼藉之事、付弓鐵炮に而鳥打事、右於違犯之輩者、可遂披露者也、仍而如件、天正十六年戊子十二月十九日、玉傳寺、山角孫十郎奉之、虎朱印、又曰、禁制、右軍勢甲乙人等、於屋敷之内、或家を破、或道具を取、狼藉之族有之者、可致披露、可處巌科候、家御用之時者、従大途可被仰出者也、仍而如件、卯月廿日、玉傳寺、川角治部大輔奉之、虎朱印。奉書一通なり。曰、西殿御宿被仰付候、敷物己下自前々座序に有之分をば、無相違可被走廻者也、仍而如件、卯十月十二日、玉傳寺、石巻奉、朱印あり。
鐘楼。鐘は寛永十八年三月鋳造。
七面社。番神大黒天及加藤清正の木像を合殿とす。
疱瘡神石祠。稲荷祠。
子院。玉林坊廃蹟。(新編相模国風土記稿より)


玉伝寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿