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猫の足あとによる神奈川県寺社案内

妙光院。小田原市城山にある日蓮宗寺院

妙光院の概要

日蓮宗寺院の妙光院は、光秀山浄栄寺と号します。妙光院は、執権北条時宗の家臣で風祭の住人風祭大野之亮光秀が日蓮上人に帰依、身延山に詣り曼荼羅蛇身解脱の画像を授輿され、屋敷内に法華堂と七面社を弘安3年(1280)の冬に建立・創建、その後、北條左京大夫氏綱の伯父日形上人の時に当地へ移転、氏綱より堂宇を建立され、中興となったといいます。紀伊大納言頼宣卿の母堂養珠院殿も曼荼羅蛇身解脱の画像を信仰、紀伊藩の祈願寺となっていたといいます。

妙光院
妙光院の概要
山号 光秀山
院号 妙光院
寺号 浄栄寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 小田原市城山2-24-20
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



妙光院の縁起

妙光院は、執権北条時宗の家臣で風祭の住人風祭大野之亮光秀が日蓮上人に帰依、身延山に詣り曼荼羅蛇身解脱の画像を授輿され、屋敷内に法華堂と七面社を弘安3年(1280)の冬に建立・創建、その後、北條左京大夫氏綱の伯父日形上人の時に当地へ移転、氏綱より堂宇を建立され、中興となったといいます。紀伊大納言頼宣卿の母堂養珠院殿も曼荼羅蛇身解脱の画像を信仰、紀伊藩の祈願寺となっていたといいます。

境内掲示による妙光院の縁起

妙光院
光秀山浄永寺と号す。日蓮宗の寺院で”七面さん”とも呼ばれている。
寺伝によれば、鎌倉幕府の執権北条時宗の家臣で風祭の住人風祭大野之亮光秀という人が日蓮上人に帰依して、弘安3年(1280)の冬、身延山に詣り曼荼羅蛇身解脱の画像を授輿され、自分の屋敷に法華堂と七面社を建立したのが始めとされている。
また、日蓮上人は光秀の子を弟子僧となして妙音阿闍梨日行と名づけてこの寺の開山とし、今の山号を授けたという。したがって光秀を開基として、日行を開山としている。
永正15年(1518)日形上人の時現在地に移って寺を再興し、この時妙光院の号を銘して通称となした。中興の日形上人は北條左京大夫の伯父と伝えられ、この時堂宇を氏綱が建立したと伝えられる。
寺宝の日蓮上人画像は「日蓮上人蛇身解脱画像」と言われ、日蓮上人の真筆で諸法図の異色あるものとして知られ、神奈川県の重要文化財に指定されている。
また、この寺に残されている後北條氏関係の数多くの文書を見ても、後北條氏がこの寺に厚い信仰を得ていたことが知られる。(境内掲示より)

新編相模国風土記稿による妙光院の縁起

(山角町)妙光院
法華宗、身延久遠寺末、光秀山浄栄寺と號す、寺傳に鎌倉執権北條時宗の臣、風祭大野之亮光秀なるものあり、當郡風祭村に住す、建長中日蓮に帰依し、弘安三年の冬、身延山に詣り、曼荼羅及蛇身解脱の画像を授輿し、宅地の側に、法華堂及七面社を建、同五年光秀が子を弟子僧となし、妙音阿闍梨日行と名け、始祖と定め(日行元徳二年三月八日卒)光秀を開基となせりと云(光秀の裔は今風祭村の隣村水野尾村に住し、清兵衛と稱せり)、永正十五年現在妙光院日形の時、當所に移る。日かたりは北條左京大夫氏綱の伯父なるを以て、氏綱堂宇を再興あり。此時妙光院の號を銘し通稱となす、故に日形を中興とす(永禄元年十月十七日卒)。享禄三年庚寅、氏綱より寺域の制札の御札を賜はれり(所蔵文書曰、禁制右當寺内山屋敷、竹木剪取事、堅令停止畢、自然剪者有之者相伴可遂披露者也、仍如件、庚寅六月十日、妙光院、遠山新次郎奉之、寅朱印)。天和二年、領主稲葉美濃守正則、先規に任せて、境内高七石餘の地を寄附す。
本尊三寳及祖師。弘安三年光秀作。祖師の開眼と云。
鬼子母神(長六寸五分、日行作)、三十番神(以上二像は、元境内別堂に安置。回禄の後ここに安ず)を安ず。
(寺寳)
曼荼羅一幅。日蓮筆なり、弘安三年十月日と記す。
蛇身解脱が像一幅。同筆、延山にて日蓮蛇形解脱せる像なり、以上二品は開基光秀入道へ授輿する所なり、元和中養珠院殿此書画を信仰あり、天下長久の祈願として、東照宮御服の切地をもて、表装を加へ、二重の箱を寄附せられしと云。按ずるに養珠院殿は、紀伊大納言頼宣卿の母堂にて、正木左近大夫康長の長女なり、かかる由緒をもて、累代當寺にて紀州家御祈願を奉れり。
七面社。毘沙門妙見(一尺二寸、運慶作)を合祀す。
鐘楼。古鐘は正安中遊行二祖真教の寄附と傳ふ。今掛る所は寛文二年再鋳の鐘なり。
子院。法雲寺蹟。開祖妙秀日永、文和三年三月五日卒。(新編相模国風土記より)


妙光院所蔵の文化財

  • 日蓮上人蛇身解脱画像(神奈川県重要文化財)

妙光院の周辺図


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