猫の足あとによる相模原市・神奈川県・首都圏の寺院、神社など寺社案内

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

石楯尾神社。相模原市緑区藤野町名倉の神社

石楯尾神社の概要

石楯尾神社は、相模原市緑区藤野町名倉にある神社です。石楯尾神社の創建年代等は不詳ながら、エボシ岩の西端(相模川)が桂川に面して楯の様に切り立った岩が屹立していた地に産土神として鎮座、古来より崇敬を受け、天安元年には神階従五位下を授けられ、その後延長5年(927)に作成された延喜式神名帳にも記載されている延喜式内社です。源頼朝も祈願所として御墨印七十五石余を寄進、奥三保18ヶ村・川入郷7ヶ村25ヶ村の総社でしたが、三増合戦により焼失、江戸期には名倉村のみの鎮守社となっていました。明治維新後の社格制定に際して郷社に列格、相模式内十三社の一社です。

石楯尾神社
石楯尾神社の概要
社号 石楯尾神社
祭神 石楯尾大神
相殿 -
境内社 八幡神社、日月両宮、蔵祖神社、天満天神、春日神社、住吉神社、浅間神社、御嶽神社、疱瘡神社、榛名神社、石楯尾祖霊社
祭日 例大祭8月26日
住所 相模原市緑区藤野町名倉4524
備考 -



石楯尾神社の由緒

石楯尾神社の創建年代等は不詳ながら、エボシ岩の西端が桂川(相模川)に面して楯の様に切り立った岩が屹立していた地に産土神として鎮座、古来より崇敬を受け、天安元年には神階従五位下を授けられ、その後延長5年(927)に作成された延喜式神名帳にも記載されている延喜式内社です。源頼朝も祈願所として御墨印七十五石余を寄進、奥三保18ヶ村・川入郷7ヶ村25ヶ村の総社でしたが、三増合戦により焼失、江戸期には名倉村のみの鎮守社となっていました。明治維新後の社格制定に際して郷社に列格、相模式内十三社の一社です。

境内掲示による石楯尾神社の由緒

天然の神磐境であるエボシ岩関係の神様の必要あって御くだりになった所の産土地に建てられた産土の神社であるので、総産土神と申しあげ、高位の神々様が数多くお鎮まり遊ばされて居り、創立は今より二千年以上前の、崇神天皇より前のようであり、応神天皇が御臨幸遊ばされたとの記録もある。
今から一千百二十年前の文徳実録に、天安元年五月丙辰、従五位下石楯尾神官社に預るとあり、相模国只一社の官社である。
今から一千八十年前の醍醐天皇の御代編纂の延喜式の神名帳に相模十三社の一の延喜式内社と記録されている。
源頼朝が祈願所として御墨印七十五石余を寄進、七つの大鳥居を建てたと、今神社の近い所に鳥居原の地名が残っている。
後柏原天皇文亀三年(四七五年前)二条関白殿下十六世後胤監物大夫陽近が勅使として参向、本殿等七十五ヶ所の御造営をした。
奥三保十八ヶ村・川入郷七ヶ村都合二十五ヶ村総社として崇敬されたが、三増合戦の禍を受け、東山天皇永禄十二年(四一二年前)十月十八日、武田信玄の為、社殿悉く烏有に帰し、古記録まで焼失した事は惜しい事であった。後に再建されたが、享保二年祝融の災にあい、現在の社殿は、中御門天皇享保九年(二五三年前)に建築されたもので、光格天皇文化五年(一七二年前)文化六年には神祇官より幣帛が献上された今に残り、明治六年社格制定に際しては、津久井郡内只一社の郷社に列した。明治四十四年末社が合併され、大正十二年二月五日神奈川県告示第二十六号により、幣帛指定神社に指定され、昭和四十三年一月二十四日神奈川県神社庁献幣使参向神社に供進された。(石楯尾神社社務所掲示より)

新編相模国風土記稿による石楯尾神社の由緒

(名倉村)
石楯尾神社
(【役帳】に三貫文神領と見へたるは當社の神領なるべし、)別當金輪寺神體銅鑄(立像、長一尺一寸、)相模國高座郡十三座の一、式内の神社なりと云傳ふ(既に佐野川村にも、石楯尾神社あり、委くは總説に辨明にす)祭神は蔵王權現なり、石楯尾神社・蔵王權現と竝べ書したる扁額を掲ぐ、傳へ説く文龜三年に再建したる舊き神社なれども永禄十二年武田信玄三増の役より凱旋する時、路是邊にかへりし時、火を放て經過し玉へば靈寶古器舊記の類悉く烏有となる、依て巴微の釆録すべきものなし、享保六年に記したる縁起あれど、採用するに足らず、社地(往古の社地は、今の社地より以西、二丁許にあり)石燈を登ること五十八級、杉松圍て蒼蔚たる一區、爽塏の地なり、西は甲相國界北には相模川を縈ていと物さびたる一奇境なり、今は一村の鎮守(文龜の棟札に、奥三保十八箇村、幷河入郷七村、都合廿五村總社と見へたり、川入は今愛甲郡に屬せり、)にして六月廿八日・十月十五日を例祭とす、神木老杉二株あり(圍み各一丈餘)
末社。八幡、子守、淺間、飯綱、山王、稲荷、四名宮 祭神詳ならず、役行者(新編相模国風土記稿より)

「神奈川県神社誌」による石楯尾神社の由緒

自然の神籬磐境(神のしずまる所)であるエボシ岩の西端が桂川に面して楯の様に切り立った岩として屹立していた。之が石楯であって、石楯の岡(昔は岡の事を尾と云う)の上の斎庭に鎮まる甲・武二州を中心とした富士神界の気を受けた守り神、総産土神石楯尾神社としての開発の守り神であったので、応神天皇の御臨幸とあったと伝えられて居り、文徳実録に文徳天皇天安元年(八五七)五月丙辰従五位下の神として官社に預ったと記されてあり、延喜の制(九〇一)では式内小社に列して居り、安徳天皇の御宇寿永元年(一一八二)には藤原左府広信が勅宣を蒙って再興したと云われる。源頼朝も祈願所として御墨印七十五石余を寄進して七つの大鳥居を建てたと伝えられ、後柏原天皇文亀三年(一五〇三)に二条関白殿下一六世後胤監物大夫陽近が勅使として、本殿はじめ拝殿・幣殿玉籬・二天門・随神門七十五ヶ所、末社七ヶ所、表僧坊十六院を造り終えられたとの記録も残っている。奥三保十八ヶ村川入郷七ヶ村都合二十五ヶ村の惣社として崇敬されたが、三増合戦の禍を受け、永禄十二年(一五六九)十月八日に武田信玄のため社殿全部が烏有となって古記録まで焼失してしまった。後に再建されたが、享保六年(一七二一)二月祝融の災にあい、現在の拝殿は中御門天皇享保九年(一七二四)に建築された。光格天皇文化五年(一八〇八)文化六年には神祇官領卜部朝臣良連より幣帛が献上されて居り、明治六年の社格制定の時には郷社に列した。明治四十四年十一月に末社が合併され、大正十二年二月神奈川県告示第二十六号によって神饌幣帛料供進神社として指定され、昭和四十三年一月二十四日神奈川県神社庁献幣使の参向する神社に指定された。これらの事を証明する様に、古代人の住居跡や、縄文時代草創期の一万年前の礫石が出土したり、甲相開発の文化の中心地として総産土神の御加護により往古より居住したと云う。河内・野崎・和賀・宮野・中村・鈴木・山崎・森久保の諸氏が広い地域に居住して、各氏の居住地には必ず小氏神を戴いて居る。(「神奈川県神社誌」より)


石楯尾神社の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿
  • さがみはら風土記稿