磯部八幡宮。山伏祐圓が村鎮守として八幡宮を創建、指定村社
磯部八幡宮の概要
八幡宮は、相模原市南区磯部にある神社です。磯部八幡宮は、鎌倉から来訪した山伏祐圓(延文2年1537年没)が佛像院磯幡山神宮寺を開創した際に、村鎮守として八幡宮を祀ったとされ、江戸時代初期には火渡りの護摩や相撲で非常に賑わったといいます。明治6年村社に指定、昭和10年には新磯村の総鎮守として指定村社となっていました。
社号 | 八幡宮 |
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祭神 | 応神天皇 |
合祀 | - |
境内社 | 三社神社、金刀比羅神社、山神宮、疱瘡神社、稲荷神社 |
祭日 | 例大祭9月5日 |
住所 | 相模原市南区磯部1388 |
備考 | 境外社厳島神社、社外地不動堂 |
磯部八幡宮の由緒
磯部八幡宮は、鎌倉から来訪した山伏祐圓(延文2年1537年没)が佛像院磯幡山神宮寺を開創した際に、村鎮守として八幡宮を祀ったとされ、江戸時代初期には火渡りの護摩や相撲で非常に賑わったといいます。明治6年村社に指定、昭和10年には新磯村の総鎮守として指定村社となっていました。
新編相模国風土記稿による磯部八幡宮の由緒
(磯部村)
八幡社
村の鎮守なり、本地佛彌陀を安ず、祭祀年々八月十五日角力を興行す、
末社。白山 浅間 天神
護摩堂。不動を安ず
別當佛像院。磯幡山神宮寺と號す、本山修験(小田原玉瀧坊觸下)開山祐圓(延文二年九月廿二日卒)(新編相模国風土記稿より)
「さがみはら風土記稿」による磯部八幡宮の由緒
磯部八幡宮は旧磯部村の鎮守として村域のほぼ中央にあります。神社の前には細長くつづく参道と水田風景が広がり、後ろには昭和6年に開通した相模線(当時は相模鉄道)が通っています。
この神社の創建は明らかではありませんが、延文元年(1536)にはすでに鎮守としてここにあったとされています。境内には三社神、金刀比羅神社、山神宮、疱瘡神、稲荷社などが点在し、樹齢500年といわれる大イチョウがそびえています。その前の石段を登りきると昭和60年に新築したばかりの立派な社殿があらわれます。
明治時代の神仏分離以前、八幡宮には別当として祐円(1358没)が開いた「仏像院磯幡山神宮寺」という修験寺院がありました。つまりこの境内は山伏の修行の場であり、護摩が焚かれ、時には火渡りの荒行や角力なども行われていたといわれています。
現在、石段の右手に江戸初期に製作された木造の不動明王坐像(市指定重要文化財)を安置する護摩堂がありますが、わずかにそれがこの神社が修験道場であったことを物語っています。
なお、神社の前の広場では毎年1月15日に市内でも最大規模の「どんど焼き」が行われ、団子のついた小枝を手にした子どもたちの歓声が響いています。(「さがみはら風土記稿」より)
境内石碑による磯部八幡宮の由緒
八幡社はもともと源氏の氏神でありますがこの社は古く創立年月日は不詳であります。延文元年(一三五六年)以前より磯部村らの鎮守として信仰厚く御神像として仏弥陀を奉斎しております。この社を開いたのは鎌倉から来訪した山伏祐圓(延文二年九月二十二日没)で別当は小田原玉瀧坊觸下の佛像院磯幡山神宮寺でありました。又文明十年三月(一四七八年)太田道灌勢により陥落するまで磯部地内には城(城主長尾景春)がありました。記録によると文禄三年(一五九四年)当時には八幡宮は幕府から社領十石を与へられておりました。享保十八年(一七三三年)七月十五日別当磯幡山神宮寺廿世仏像院快省法印参詣し毎年八月十五日に角力を興行にしておりました。当時の地頭は大津新右衛門で上下村勝坂氏子中と棟札に記されております。江戸初期の不動尊と寺社奉行宛古文書等推定樹齢五百年の銀杏が現存しております。当社では山伏の修験が行われ江戸時代には沢山の家業繁昌厄除が焚から又この地域は大山詣りの宿場のため境内は非常に賑ったと伝へられます。当時は対岸の依知、山際等からも参拝があり特に火渡りの護摩が有名でありました。明治二年神仏混淆の禁令により別当職が解かれ八幡大神と称しました。明治六年村村社に指定されました。明治二十六年の神社明細書には氏子数(上磯部、下磯部勝坂)で二二九戸と記してあります。明治四十年境外地(山林)は神社風致林として宮内省御料局より拂下げを受けました。大正十二年三月老朽に伴い氏子の奉賛により社殿を新改築いたしました。昭和十年九月二十七日新磯村の総鎮守として指定村社に列せられ法律の施行により昭和二十八年七月宗教法人となりました。昭和五十七年十月東京電力株式会社の送電線神社用地上空通過に伴う神社補償料にて、御社殿、末社、鳥居、石段、手水舎等の改築しました。(境内石碑より)
神奈川県神社誌による磯部八幡宮の由緒
創立年月日は不詳であるが、延文元年(一三五六)以前より村の鎮守として仏弥陀を安置す。
別当は仏像院磯幡山神宮寺と称した。関山は祐円(延文二年九月二十二日没)である。享保十八年(一七三三)七月十五日に別当・磯幡山神宮寺廿世仏像院快省法印がこれを再建し、毎年角力を興行していた。江戸初期の不動尊と、推定樹齢約五百年といわれる銀杏が現存する。当山は山伏の修験場であって、江戸時代には沢山の護摩が焚かれ、境内は非常に賑ったと伝えられる。当時は依知、山際等からも参拝があり、特に火渡りの護摩が有名であった。
明治二年神仏混渚の禁令により別当職が解かれ、爾来神官が奉職する事になる。八幡大神と称した明治六年十二月、村社に列せられ、大正十二年三月に社殿を新改増築した。昭和十年九月二十七日指定村社に列せられた。(神奈川県神社誌より)
磯部八幡宮の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- さがみはら風土記稿
- 神奈川県神社誌