新田稲荷神社。淵野辺新田の鎮守、旧陸軍兵器学校から遷座した細戈神社

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

新田稲荷神社。相模原市中央区共和の神社

新田稲荷神社の概要

新田稲荷神社は、相模原市中央区共和にある神社です。新田稲荷神社は、文政元年(1818年)から開拓の始まった淵野辺新田の鎮守として稲荷社として創建したといいます。新田開発以前の当地は原野で行方不明者が多かったことから、塚(呼ばわり山)を築いて鐘や太鼓で捜索、塚上に当社創建以前に今熊神社の分霊を勧請したものだといいます。また細戈神社は、終戦後に旧陸軍兵器学校から遷座したものだといいます。

新田稲荷神社
新田稲荷神社の概要
社号 新田稲荷神社
祭神 応神天皇
相殿 天照大神、火産大神、保食神、建御名方神
境内社 -
祭日 9月15日
住所 相模原市中央区共和1-11-18
備考 -



新田稲荷神社の由緒

新田稲荷神社は、文政元年(1818年)から開拓の始まった淵野辺新田の鎮守として稲荷社として創建したといいます。新田開発以前の当地は原野で行方不明者が多かったことから、塚を築いて鐘や太鼓で捜索、塚(呼ばわり山)上に当社創建以前に八王子市川口の今熊神社の分霊を勧請したものだといいます。また細戈神社は、終戦後に旧陸軍兵器学校から遷座したものだといいます。

新編相模国風土記稿による新田稲荷神社の由緒

新編相模国風土記稿編纂時、未開拓地のため記載なし(新編相模国風土記稿より)

さがみはら風土記稿による新田稲荷神社の由緒

淵野辺新田稲荷神社はJR横浜線に沿った共和1丁目にあります。春になると境内は桜が満開になり、電車の乗客の目を楽しませています。
この神社は淵野辺新田の鎮守でした。文政元年(1818)、近隣の村々を巡回していた御勘定方出役最上徳内の斡旋により、この地の開発がはじまりました。いわゆる淵野辺新田の開発です。そのさい、久保沢道(八王子道)に沿う「呼ばわり山」の脇に稲荷社を勧請し、鎮守としたのがこの新田稲荷神社です。もっとも当時は「すぎっば稲荷」と呼ばれていたようです。
「呼ばわり山」は6~77花の高さのある人工の小山で、頂きには「今熊神社」の小祠があります。このあたりは広大な原野であったため、いったん草に囲まれると方向がわからずに行方不明になる人もいました。そのため見晴らしのよい小高い山を築き、人さがしに御利益のある川口村(現在の八王子市)の今熊神社を勧請して行方不明者の捜索に役立てたといわれています。
境内には「細戈神社」が合祀されていますが、これはもともとは旧日本陸軍兵器学校にまつられていたもので、終戦後の昭和20年にここに遷座したものです。社殿の前の資料庫には学校当時の貴重な資料が保存されています。(「さがみはら風土記稿」より)

神奈川県神社誌による新田稲荷神社の由緒

口伝によると江戸時代の新田開発以前は、荒涼たる原野で行方不明になる者が多かったとのこと。当時、社殿の右側にある小高い丘の上に、武州川口村の今熊神社の分霊を勧請して「いまごま様」と呼んで崇敬した。
文政元年(一八一八)には新田の鎮守として稲荷様を祀り、同二年(一八一九)二月に改築した。昭和二十二年に焼失し、同二十四年、現在の本殿・覆殿を新築し現在に至る。又細戈神社は昭和二十年九月に陸軍兵器学校より遷座した。(「神奈川県神社誌」より)

境内掲示による新田稲荷神社の由緒

文政元年(1818年)に久保沢道下に建てられた淵野辺新田地域の鎮守社。祭神は宇迦魂神。例祭は八月下旬。境内の小さな丘は、「呼ばわり山」といわれ、迷い子や行方不明の者が出た時、鐘や太鼓をたたいて呼ばわると、必ず現れるという民間信仰の場所です。
境内にはる細戈神社は昭和二十年に地陸軍兵器学校から移されたものです。
※呼ばわり山の頂上には、今熊神社があります。(大野北公民館掲示より)


新田稲荷神社所蔵の文化財

  • 呼ばわり山(相模原市登録文化財)

呼ばわり山

その昔、当地は平地で雑木林と原野であったが、行方不明者が多かったので、野火除のため開墾の芝や土などで約七メートルの塚を築き、頂上で鐘や太鼓を叩いて御祈りして探したと伝えられている。(境内掲示より)

新田稲荷神社の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿
  • さがみはら風土記稿