当麻天満宮。旧三井寺座主妙音が建立
当麻天満宮の概要
天満宮は、相模原市南区当麻にある神社です。天満宮は、近江国三井寺座主だった妙音が、延久5年(1073)に世を逃れて当地に隠棲、天満宮を勧請し、さらには山王権現社を建立したといいます。江戸期には当麻村の鎮守として祀られ、明治期には村社に列格していました。当社には元別当寺だった梅松寺の本尊不動明王像や、鎌倉後期の作と思われる十一面観音菩薩坐像の懸仏が残されているといいます。
社号 | 天満宮 |
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祭神 | 菅原道真 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷社 |
祭日 | 例大祭3月25日 |
住所 | 相模原市南区当麻1 |
備考 | - |
当麻天満宮の由緒
天満宮は、近江国三井寺座主だった妙音が、延久5年(1073)に世を逃れて当地に隠棲、天満宮を勧請し、さらには山王権現社を建立したといいます。江戸期には当麻村の鎮守として祀られ、明治期には村社に列格していました。当社には元別当寺だった梅松寺の本尊不動明王像や、鎌倉後期の作と思われる十一面観音菩薩坐像の懸仏が残されているといいます。
新編相模国風土記稿による当麻天満宮の由緒
(當麻村)
天満宮
村の鎮守とす、神躰木座像、本地十一面觀音(立像湛慶作古は字大日堂と云地にあり、)例祭二月廿五日相殿に牛頭天王を祀る(六月七日、下宿に神輿を移し、十四日歸座す、)
末社。稲荷
松樹。神木なり、圍一丈餘、
別當二院。一は天満山明達院梅松寺と號す(二院共本山修験小田原玉瀧坊配下、)開山妙音(慶徳元年四月廿七日卒、傳云妙音は近江國三井寺の座主なりしが世を遁、當所に来り、天満宮を勧請せしとなり、)一は明王院明行寺(山號は梅松寺に同)開祖玄春(寛文四年三月廿五日そつ、明達院十三世の時、分れて兩院となれり、)共に本尊不動、(新編相模国風土記稿より)
「さがみはら風土記稿」による当麻天満宮の由緒
この天満宮は当麻市場地区の中ほどにあります。市場地区は昔ながらの家並みを残している市内でも数少ない地域で、路地の脇を流れる小川では洗いものをしている人の姿を見ることができます。また、神社の裏手からも清水が湧き出し、古くからの風情と豊かな自然に恵まれた絶好の地域といえましょう。
この天満宮を創建したのは、近江国三井寺の座主であった妙音であったと伝えられています。延久5年(1073)混乱の世を逃れてこの地に来た妙音はここに天満宮を勧請し、さらには山王権現社を建立したといわれています。
なお、天満宮は天満山明達院梅松寺を別当としており、この寺院からはさらに明王院明行寺が分かれていますが現在ではともに廃寺となり、梅松寺の本尊であった不動明王像は天満宮の社殿の中に安置されています。
また、鎌倉後期の作と思われる十一面観音菩薩坐像の懸仏も保管されており、この神社の古さを物語っています。
静かな境内には小さな稲荷社が合祀され、万延2年(1861)に村人が奉納した灯籠などがありますが、鳥居の横にある秋葉灯籠は御利益を願う人々が削りとってしまったためか、ずいぶんとすり減っていましました。(「さがみはら風土記稿」より)
境内掲示による当麻天満宮の由緒
新編相模風土記等によればこの天満宮は延久五年・一〇七三年二月二十五日、妙音が建てたものとされている。
妙音は近江国三井寺の座主であったが世をのがれて当地に来たり天神を勧請し山王権現社一宇を建立した。
御神体は菅原道真公の木座像、本地十一面観音の立像、湛慶作、古は大日堂にあったものと言われている。
別当は天満山明達院梅松寺と言い他の一寺は明王院明行寺で明達院十三世の時分かれて二院となった。
両院とも不動明王を本尊としている。
元文の頃(一七三六~一七四一)牛頭天王を相殿に祀った。
道真公は太政大臣を追贈され学問の神として尊崇されている。(境内掲示より)
当麻天満宮の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- さがみはら風土記稿