長島神社。伝承鎌倉時代頃創建
長島神社の概要
長島神社は、相模原市南区上鶴間本町にある神社です。長島神社の創建年代等は不詳ながら、創立は鎌倉時代頃に遡るのではないかともいい、江戸期には上鶴間村小名中和田の鎮守社だったといい、当社に残される元禄16年名の棟札は、相模原市内の神社では最古の棟札だといいます。昭和39年には付近に鎮座していた山神社、天満宮、大山不動、秋葉社、神倭伊波札毘古命、地神塔、石神井社、大六天社、道祖神、伊勢山社、山王社、神明社を合祀したといいます。
社号 | 長島神社 |
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祭神 | 伊邪那岐命、伊邪那美命 |
相殿 | - |
境内社 | 八坂神社など |
住所 | 相模原市南区上鶴間本町9-17-32 |
祭日 | 例大祭9月9日前後の日曜日 |
備考 | - |
長島神社の由緒
長島神社の創建年代等は不詳ながら、創立は鎌倉時代頃に遡るのではないかともいい、江戸期には上鶴間村小名中和田の鎮守社だったといい、当社に残される元禄16年名の棟札は、相模原市内の神社では最古の棟札だといいます。昭和39年には付近に鎮座していた山神社、天満宮、大山不動、秋葉社、神倭伊波札毘古命、地神塔、石神井社、大六天社、道祖神、伊勢山社、山王社、神明社を合祀したといいます。
新編相模国風土記稿による長島神社の由緒
(上鶴間村)長嶋明神社
小名中和田の鎮守とす、稲荷を合祀す、元禄十六年再建の棟札あり、武州多磨郡原町田延命院持下同じ。(新編相模国風土記稿より)
「さがみはら風土記稿」による長島神社の由緒
長島神社は県立上鶴間高校の近くにある上鶴間中和田地区の鎮守です。昭和36年に改築された拝殿には見事な彫刻が施され、参拝者の目を楽しませています。
この神社の創建は明らかではありませんが、すぐ下を「鎌倉道」と呼ばれる古道が通っているため、その道沿いに当時からあったのではないかと推測されています。ただし、本殿に残された墨書銘を見ると元禄16年(1703)とあり、それ以上さかのぼることはできません。それでも市内の神社の中ではその建造年が判明できる最古の例となっています。
さて、社殿の右隣には八坂神社が併祀されています。この神社は病気除けとして崇められていますが、最近では元旦深夜に「おけら火まいり」も行われるようになりました。これは京都の八坂神社から譲り受けたキク科の植物「おけら」を燃やし、それを火種にして湯を湧かしたり雑煮を煮たりするというものです。ほかにも、昭和51年に移築された「北向庚申塔」や大正4年に造られた9基の石祠(1基のみ昭和11年)がきれいに立ち並び、大晦日には広い境内も参詣者でたいへんなにぎわいとなっています。(「さがみはら風土記稿」より)
境内掲示による長島神社の由緒
長嶋神社の御稱号は、国土日本列島を表現して呼稱し奉ったものと解せられ、御祭神伊邪那岐命、伊邪那美命は我が国の御祖神であらせられる。
創立年月は不詳であるが、旧鎌倉道に近いこと及び付近の小字道正山より康暦年間の板碑等が発掘されたことなどを照合すると鎌倉幕府時代に既に創立されていたものと推察される。
長嶋神社は当地域(字中和田)在住氏子の鎮守氏神として住民総ての信仰の的となっているが、昭和二十年頃までは東林間、翠ヶ丘、小田急相模原駅付近(西側は座間市、北側は旧字谷口との境)までの広範囲な地域にわたり氏子を擁していた。
尚往時の社殿は、集落が段丘の下に在った関係上、東向であったが後年北向に再建されたものでそれは左記の棟札裏面記載により明暦三年(一六五七年)か、元禄十六年(一七〇三年)又は天保十五年(一八四四年)の何れかであったものと思考される。
現在の社殿は、昭和三十六年(一九六一年)に従来の茅葺屋根を銅板葺として新しく造営され今日に至っている。又社頭に向って右の「いちょう」の木は樹令不明であるが相当経年の古木であることがうかがわれる。(境内掲示より)
長島神社の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- さがみはら風土記稿