村富神社。相模原市中央区矢部の神社

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

村富神社。上矢部新田村開発の寛文年間創建

村富神社の概要

村富神社は、相模原市中央区矢部にある神社です。村富神社は、江戸の商人相模屋助右衛門が当地周辺の上矢部新田村を開発するにあたり村の鎮守として寛文年間(1661-1672年)稲荷社として創建、明治6年に村社に列格したといいます。

村富神社
村富神社の概要
社号 村富神社
祭神 倉稲魂命
相殿 -
境内社 祖神社、竜神道祖神社
祭日 -
住所 相模原市中央区矢部2-7-15
備考 旧村社



村富神社の由緒

村富神社は、江戸の商人相模屋助右衛門が当地周辺の上矢部新田村を開発するにあたり村の鎮守として寛文年間(1661-1672年)稲荷社として創建、明治6年に村社に列格したといいます。

新編相模国風土記稿による村富神社の由緒

(上矢部新田村)稲荷社
村の鎮守とす、例祭七月二十四日、村持。(新編相模国風土記稿より)

「さがみはら風土記稿」による村富神社の由緒

村富神社は矢部の町中に建つ社殿も立派な神社です。参道にはサクラやケヤキが立ち並び、春秋には参拝者の目を楽しませています。
江戸初期まではこのあたりは人の手の入らない広大な入会地でした。
延宝年間(1673~81)、甲州出身の江戸商人相模屋助右衛門はここに宿場を伴う新田村を開こうと計画し、幕府の許可を得るとさっそく油屋・鍛冶屋・雑貨屋・木銭宿などを設けて開墾をはじめました。こうして開発されたのが「上矢部新田」(後の矢部新田)です。
村富神社はこの時に新田村の鎮守として創建されました。開拓以前からあった小さな祠のあたり28間四方を社地とし、参道は辰己(南東)の方向に50間の長さを設けています。境内には大正末まで「見透しの松」と呼ばれる見事な大松があり、神社のシソボルとなっていました。
さて、境内の一角に「獅子堂」という小さな堂があり、その中には文化3年(1806)の墨書がある古い獅子頭3体が保存されています。記録や伝承を調べると、この神社の境内では例大祭には「狂い獅子」と呼ばれる獅子舞が行われていたことがわかります。しかし、残念なことに明治中頃に絶えてしまったらしく、今となってはそれがどんな舞いであったのかを知る術もありません。(「さがみはら風土記稿」より)

相模原市・相模原市観光協会掲示による村富神社の由緒

村富神社
この神社は、寛文年間(1661-1672年)に新田開発のために創建されたものですが、もともとは街道沿いの小さな祠であったといわれています。この新田は「上矢部新田(かみやべしんでん)」と呼ばれ、江戸の商人相模屋助右衛門(さがみやすけえもん)が計画したものですが、貞享元年(1684年)には検地がされ、開発面積193町9反26歩が記録されています。
また、慶応2年(1866年)には村の代表が京都伏見稲荷に参拝し、神霊を拝受されています。
なお、この神社には文化3年(1806年)に製作された獅子頭3体が保存されています。(相模原市・相模原市観光協会掲示より)


村富神社所蔵の文化財

  • 村富神社の獅子頭(相模原市指定有形民俗文化財)

村富神社の獅子頭

獅子頭の内側に書かれた文字から制作者や年代などが判明しており、郷土の生活文化を知る上で極めて貴重なものです。剣獅子、玉獅子、巻獅子と呼ばれる3つの頭があり、後頭部まで木で覆われるのが特徴です。
剣獅子には、
新田邑 若者共 作之也
文化三丙寅歳 七月吉
玉獅子には

文化三丙歳 若者中 作之也
神祇官領中百庄祓 増嶋左近 藤原清方作之也

大工棟梁 座間作
の墨書があります。
指定年月日平成18年1月1日(相模原市教育委員会掲示より)

村富神社の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿
  • さがみはら風土記稿