巨福山梅宗寺。梅宗寺の百観音
梅宗寺の概要
曹洞宗寺院の梅宗寺は、巨福山と号します。梅宗寺は、慶長年間(1596~1615)に根小屋功雲寺10世柳山洞絮(元禄2年1689年没)が梅宗庵と号して開山、享保8年(1723) に当寺4世補教が中興として梅宗寺と号したといいます。境内観音堂には百体の石造観音像が安置され、相模原市有形民俗文化財に登録されています。
山号 | 巨福山 |
---|---|
院号 | |
寺号 | 梅宗寺 |
本尊 | 釈迦如来像 |
住所 | 相模原市緑区上九沢264 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
梅宗寺の縁起
梅宗寺は、慶長年間(1596~1615)に根小屋功雲寺10世柳山洞絮(元禄2年1689年没)が梅宗庵と号して開山、享保8年(1723) に当寺4世補教が中興として梅宗寺と号したといいます。
新編相模國風土記稿による梅宗寺の縁起
(上九澤村)
梅宗寺
巨福山と號す、曹洞宗(津久井縣根小屋村功雲寺末)開山柳山洞絮(元禄二年八月二十三日卒)本尊釋迦。
大鐘。近時鑄造銘あり。
觀音堂。(新編相模國風土記稿より)
平成さがみはら風土記稿による梅宗寺の縁起
梅宗寺は、バス停「上九沢」より西へ100m、鳩川を背にした曹洞宗の寺院です。
『風土記稿』によると、功雲寺(津久井町根小屋)の末寺で、山号を巨福山といい、釈迦如来を本尊としています。
また、関山は柳山洞絮〔元禄2年没〕としています。
これについて『地誌』では、慶長年間(1596~1615)に功雲寺10世普月(柳山洞絮)によって梅宗庵という一庵が結ばれ、その後、享保8年(1723) に4世補教がこれを中興として梅宗寺と号したとしています。なお同書では、本尊の釈迦如来像とその脇侍は、正徳6年(17l6) に当村の瀬ノ間六兵衛という人が寄納したと伝えています。
当寺の境内には観音堂と蚕影社があります。蚕影社は養蚕の守護として信仰され、昭和30年代までは祭日には参拝者で賑わったといいます。
また、ほかにも迷い事がある時に持ち上げて占ったという「持上観音」と呼ばれる石仏や、詩文と書に長じた当村出身の名僧南山禅師こと南山古梁〔天保10年(1839)没〕の顕彰碑があります。
江戸時代には、当寺でも寺小屋が開かれ、児童の教育に努めていました。(平成さがみはら風土記稿より)
観音堂について
(上九沢梅宗寺境内)観音堂
この観音堂は、上九沢の梅宗寺の入口にあります。
『風土記稿』にも記載があり、寛保年間(1741~44) に梅宗寺4世禅参が創建したといわれています。その後、文政年間(1818~30) に再建され、現在の堂宇は昭和15年に建てられたものです。
堂内には百一体もの観音像が安置されています。特に一体だけ白く塗られた「白子観音」があり、安産守護として古くから信仰されています。
ここの観音の縁日は10月の8・18・28日で、昭和30年代までは大勢の参拝者で賑わっていました。(平成さがみはら風土記稿より)
梅宗寺所蔵の文化財
- 梅宗寺の百観音(相模原市登録有形民俗文化財)
梅宗寺の百観音
百観音は梅宗寺の観音堂内に祀られています。西国一番から三十三番、坂東一番から三十三番、秩父一番から三十四番の日本百観音霊場札所番号を刻した台座にのる百基の石造観音像です。
西国一番の石塔には「天明五年」(一七八五)の年紀があることから、百観音はこの年代以降に造立されたものと考えられます。当時、梅宗寺の第八世大真悦道大和尚の代に百観音巡礼できな人々のため、一堂で参拝できるようにしたと伝えられます。
造立目的の多くは上九沢在住者が先祖の供養として寄進したものですが、西国二十番の千手観音は「白子観音」と呼ばれ、安産の守り本尊として信仰を集めていました。(相模原市教育委員会掲示より)
梅宗寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- さがみはら風土記稿