長松寺。相模原市南区新戸にある曹洞宗寺院、鎌倉公方足利氏満開基

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

萬年山長松寺。鎌倉公方足利氏満開基

長松寺の概要

曹洞宗寺院の長松寺は、萬年山と号します。鎌倉公方足利氏満開基となり、曇芳〔応永6年(1399)没〕を開山として創建したと伝えられます。幾度か中興され、その間に臨済宗建長寺派から曹洞宗に改宗、慶安2年(1649)には幕府より寺領10石の朱印地を拝領しています。

長松寺
長松寺の概要
山号 萬年山
院号 -
寺号 長松寺
本尊 薬師如来
住所 相模原市南区新戸2079
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



長松寺の縁起

長松寺は、鎌倉公方足利氏満開基となり、曇芳〔応永6年(1399)没〕を開山として創建したと伝えられます。幾度か中興され、その間に臨済宗建長寺派から曹洞宗に改宗、慶安2年(1649)には幕府より寺領10石の朱印地を拝領しています。

平成さがみはら風土記稿による長松寺の縁起

長松寺は、JR相模線相武台下駅より北東200mにある曹洞宗寺院です。
『風土記稿』によると、功雲寺(津久井町)の末寺で、山号を萬年山といい、薬師如来を本尊としています。
また、同書では鎌倉公方足利氏満が曇芳〔応永6年(1399)没〕を請じ、臨済宗建長寺宝珠庵の末寺として開いたことを伝えています。この曇芳は鎌倉の永安寺(廃寺)の開山でもあり、同じく鎌倉の円覚寺、建長寺を経て当寺の開山となっています。
永享2年(1430)、当寺は再建されその後、後北条氏の頃に当地の守護人松本式部少輔によって中興され、さらに平岡岡右衛門吉道と喚室宗応によって再度、中興されたと伝えられています。
現在のように曹洞宗になったのは、この再中興の時のようです。
また慶安2年(1649)には10石の朱印地が与えられています。
なお、ここでも江戸時代には寺小屋が開かれています。
当寺には前述した足利氏満による応永3年(1396)の寄進状が残されています。これはすでに『風土記稿』にも紹介されていますが、現在する市内最古の文書でもあり、昭和50年に市指定重要文化財となっています。(平成さがみはら風土記稿より)

新編相模國風土記稿による長松寺の縁起

(新戸村)長松寺
萬年山と號す、曹洞宗(津久井縣根小屋功雲寺末)本尊薬師を安ず、相傳ふ左兵衛督源氏満(永安寺壁山全公と謚す、應永五年十一月四日卒、)曇芳品和尚(鎌倉永安廢寺開山なり、應永六年三月二十四日卒、【高僧傳】曰、釋周應字曇芳、久從夢想國師、参叩不闕、依鎌倉原管領之請住圓覚寺、移建長寺後退休瑞林庵、應永某年九月七日順世、按ずるに、示寂の月日寺傳と差へり)を請じ開山として當寺として當寺を起立、臨済派の梵刹とし、顯弔辞寶珠庵の末に屬して寺領を附す、其寄附状今に蔵す(文に、寄進建長寺寶珠庵末寺長松寺、相模國座間郷内田畠在家事、右爲當寺寺領如元可被致沙汰云々、應永三年十二月十七日左兵衛督源朝臣とあり、按ずるに如元と云に據れば、氏満剏建と云は疑べし)永享二年再建其後衰敗せしを小田原北條氏の頃、當所の守護人松本式部少輔某(法名葉林道荷)堂宇を中興す、夫より後僧喚室宗應、平岡右衛門吉道と謀りて再中興し、宗派を改て功雲寺の末に屬す、故に宗應を後の開山とし(元和九年三月九日卒、)吉道を中興開基と稱す(吉道法名花林良岳、慶安元年四月十四日死、)慶安二年八月二十四日寺領十石の御朱印を附らる、
白山社
鐘樓。鐘に元禄十年の銘を彫る、(新編相模國風土記稿より)


長松寺所蔵の文化財

  • 足利氏満による応永3年(1396)の寄進状(相模原市指定文化財)

長松寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿
  • さがみはら風土記稿