龍淵山天應院。下溝学校開校地、関東九十一薬師霊場
天應院の概要
曹洞宗寺院の天應院は、龍淵山と号します。佐野(栃木県)にあった天應院が戦国時代に焼失したため、天叟順孝〔天文元年(1532)没〕がその師、季雲永岳季雲〔大永6年(1526)没〕に請うて、北条氏照の娘貞心尼を中興開基として、明応4年(1495)に当地に中興開山したと伝えられます。慶安3年(1650)には寺領9石7斗の朱印地を拝領していた他、徳川家光の養育役であった青山忠俊により再中興されています。明治時代には、当地に麻溝小学校の前身にあたる下溝学校を開校、また下溝の松原集落にあった薬師堂を当地に移転、この薬師は関東九十一薬師霊場19番です。
山号 | 龍淵山 |
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院号 | 天應院 |
寺号 | - |
本尊 | 虚空蔵菩薩 |
住所 | 相模原市南区下溝780-1 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 関東九十一薬師霊場19番 |
天應院の縁起
天應院は、佐野(栃木県)にあった天應院が戦国時代に焼失したため、天叟順孝〔天文元年(1532)没〕がその師、季雲永岳季雲〔大永6年(1526)没〕に請うて、北条氏照の娘貞心尼を中興開基として、明応4年(1495)に当地に中興開山したと伝えられます。慶安3年(1650)には寺領9石7斗の朱印地を拝領していた他、徳川家光の養育役であった青山忠俊により再中興されています。明治時代には、当地に麻溝小学校の前身にあたる下溝学校を開校、また下溝の松原集落にあった薬師堂を当地に移転しています。
平成さがみはら風土記稿による天應院の縁起
天應院は、JR相模線原当麻駅より東へ400mのところにある曹洞宗寺院です。
『風土記稿』によると、石雲院(静岡県榛原町)の末寺で、山号を龍淵山といい、虚空蔵菩薩を本尊としています。
また、開山を季雲〔大永6年(1526)没〕、中興開基を北条氏照の娘貞心とし、慶安3年(1650)には9石7斗の朱印地が与えられています。
これについて寺伝では、佐野(栃木県)にあった天應院が戦国時代に焼失したため、天叟順孝〔天文元年(1532)没〕がその師、季雲永岳に請うて明応4年(1495)に当地に再建したと伝えています。ちなみに、季雲永岳は武州の出身で、当寺をはじめ多くの寺院を開いています。
また、中興の貞心については、5世太陰岱樹〔天正5年(1577)没〕の時に剃髪して尼僧となり、寺社領を寄進して再興したといわれています。貞心は下溝「堀の内」に居を構え、その墓と伝えられるものが当寺にあります。
さらに、徳川家光の養育役であった青山忠俊により再中興がされたと伝えられています。忠俊は家光の勘気を受けて謹慎の身となり、当寺の前に仮居住したといわれています。
明治時代、当寺には第20区の役所が設けられ、また麻溝小学校の前身にあたる「下溝学校」も開校されました。(平成さがみはら風土記稿より)
新編相模國風土記稿による天應院の縁起
(下溝村)天應院
曹洞宗(遠州榛原郡高尾石雲院末)龍淵山と號す、本尊虚空蔵、開山季雲(大永六年二月十五日卒)中興開基は北條氏照の女貞心尼なり、慶安三年寺領九石七斗の御朱印を賜ふ。
鐘樓。鐘は元禄六年鋳造す。
白山社。天神社。衆寮。
北條氏墓。碑面貞心大姉、天正十六年八月廿六日とあり(是北條氏照の女にして、山中大炊助某に嫁す、某卒後尼となり、貞心と號、上下溝村其化粧料の地なれば、當所に隠棲、菩提の爲當寺を中興せり)
青山伯耆守忠俊墓。泰雲院春室宗信寛永廿年四月十五日と鐫る(忠俊罪を被て當村に籠居し、當寺衆寮にて卒すと云、按ずるに、寛永譜に忠俊御勘気を被て溝村に蟄居、後遠州に移り、又當郡今泉村に移居して卒すと云、青山系圖には今泉村にて卒し、遺骨を高野山に収とあり、當寺にて卒せしと云事覺束なし、猶上今泉村條見るべし、又青山常陸介忠成が母の墓あり)(新編相模國風土記稿より)
明治初年に吸収した薬師堂の縁起
薬師堂
この薬師堂は、下溝の天應院の境内にあります。
『風土記稿』には「十二神将をも安ず天應院持」と記されており、また本尊の薬師如来立像には「享保十一年七月神田□町 大仏師興西」などの胎内銘があります。
本堂はもともと下溝の松原集落にあったものですが、やがて明治時代末に天應院に合祀されました。現在の堂字は昭和50年に天應院450回忌記念事業として建てられたものです。
薬師如来は目の治療に効果があるといわれ、近年までは参拝に訪れる人もかなりいたようです。(平成さがみはら風土記稿より)
天應院の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- さがみはら風土記稿