弘行寺。九老僧大円阿闍梨日伝開山
弘行寺の概要
日蓮宗寺院の弘行寺は、関本山と号します。弘行寺は、日蓮上人が身延山から池上へ向かう途次、当地の下田五郎左衛門邸に投宿、その邸を一寺とし、地名年号に因んで関本山弘行寺と号したといいます。境内には徳川家康側室「お萬の方(養珠院殿)」の母堂性殊院殿の墓があります。
山号 | 関本山 |
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院号 | - |
寺号 | 弘行寺 |
本尊 | 三宝祖師像 |
住所 | 南足柄市雨坪507 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
弘行寺の縁起
弘行寺は、日蓮上人が身延山から池上へ向かう途次、当地の下田五郎左衛門邸に投宿、その邸を一寺とし、地名年号に因んで関本山弘行寺と号したといいます。
「南足柄市史」による弘行寺の縁起
雨坪村弘行寺
弘安五年(一二八二)九月、甲州身延山から療養のため常陸(茨城県)へ行く途中の日蓮は、関本の民家に宿泊した。その民家にあった不動堂を弘行寺と称し、一寺を興したという。なお、当時の雨坪は関本の一部であった(『風土記稿』)。(「南足柄市史」より)
「日蓮宗寺院大鑑」による弘行寺の縁起
弘行寺
弘安5(1282)年9月15日の創立。開山宗祖。開基中老日弁。開基檀越下田五郎左衛門。池上・感応寺法縁、住職は神楽坂法縁。宗祖身延より池上に向かう途次下田邸に投宿。その邸を梵字として地名・年号に因み寺号公称。宗祖寓宿の霊場である。(「日蓮宗寺院大鑑」より)
新編相模國風土記稿による弘行寺の縁起
(雨坪村)
弘行寺
關本山と號す、法華宗(下總國葛飾郡中山法華經寺末)、弘安五年九月十五日、日蓮甲州身延山より、武州池上へ赴く時、少時當所村民の家に寓宿あり、(按ずるに、注畫賛に、九月八日、出身延云々、十五日關本、十八日入武蔵國千束郷池上村とあり、)當寺其頃迄は、不動堂なりしが、日蓮爰に止宿の際、興立して一寺となし、地名に因て關本山(當時此地も關本の内たり、事は關本村條にあり、)と唱へ、弘安中の起立故弘行寺と稱す、故に日蓮を開山とす、中興日怡(寶暦十年十一月十八日寂す)本尊三寶諸尊を置、又不動を安ぜり、(不動は往昔不動堂に安ぜし本尊なりと云、)
△香神堂
△養珠院殿母堂墓。五輪塔なり、(高二尺八寸、法名性珠院殿妙用日理と號す、天正十九年八月七日死、按ずるに、養珠院殿は、紀伊大納言賴信卿の母公なり、)當寺に葬せし来由詳ならず、
△日蓮腰掛石。今は日蓮の名號を彫たる一碑を建て、其臺石の上座とす、(高一尺五寸、惣高八尺許)(新編相模國風土記稿より)
弘行寺所蔵の文化財
- 性殊院殿の墓
性殊院殿の墓
『新編相模國風土記稿』に「養珠院殿母堂墓、五輪塔なり、高二尺八寸(八五センチ)法名性殊院妙用日理と號す。天正十九年(一五九一)八月七日死、按ずるに養珠院殿は紀伊大納言頼宣卿の母公なり、當寺に葬せし来由詳ならず」と記されている。養珠院殿は、「お萬の方」といい正木頼忠の娘、蔭山氏廣の養女で蔭山殿と称し徳川家康側室となられた方である。
甲州身延に往復された途次に日蓮上人御一宿の霊場である当寺をたずね、亡母の冥福のために遺物を埋葬されたのか、母堂がここで亡くなられたのを供養されたのか、この性殊院の墓と伝えられる五輪塔がある。
寺宝とされている桃山時代の金蒔絵の碁盤は、この関係で蔭山氏廣から寄進されたものといわれている。(南足柄市教育委員会掲示より)
弘行寺の周辺図
参考資料
- 新編相模國風土記稿
- 「南足柄市史」
- 「日蓮宗寺院大鑑」