江月院。田代五郎左衛門信綱が開基
江月院の概要
曹洞宗寺院の江月院は、牛頭山と号します。江月院は宝室鎮和尚が、元久元年(1204)に光月庵という小庵を営み創建、香林寺第九世理琴文察大和尚が永禄3年(1560)曹洞宗に改めて開山、小田原北条氏の旧臣、田代(冠者)五郎左衛門信綱が開基したといいます。
山号 | 牛頭山 |
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院号 | 江月院 |
寺号 | - |
本尊 | 木造聖観世音菩薩立像 |
住所 | 南足柄市矢倉沢1381 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
江月院の縁起
江月院は宝室鎮和尚が、元久元年(1204)に光月庵という小庵を営み創建、香林寺第九世理琴文察大和尚が永禄3年(1560)曹洞宗に改めて開山、小田原北条氏の旧臣、田代(冠者)五郎左衛門信綱が開基したといいます。
境内掲示による江月院の縁起
嶺松山江月院縁起
一説に依れば当山は平安末期の其の昔、かの和泉式部日記の作者、和泉式部が足柄峠を越える際、一夜の宿とした古寺が前身であるともする。
正規な伝書に記するところでは、鎌倉時代初期の元久元年(一二〇四年)宝室鎮和尚なる人、当地に至りて、光月庵という小庵を開いたのが、当山の起こりであるとする。
更に今を去ること約四百五十年前、戦国時代の永禄三年(一五六〇年)に、小田原三ヶ寺の一つである香林寺の第九世理琴文察大和尚が入り、禅刹(曹洞宗)江月院と改め、新たに初代開山と成る。
御本尊は平安時代の作と推定される木造聖観世音菩薩立像であり、また木造地蔵菩薩(往時参道登り口にあった地蔵堂から移す)、其の他の諸仏が本堂内に安置されている。
開基(寺建立の発願並びに出資者)は、鎌倉御家人の末裔で小田原北条氏の家臣、田代(冠者)五郎左衛門信綱である。
田代冠者は命を受け、伊豆田代村より関所普請の為、矢倉沢村に来村した長者であるとされる。
江戸時代の宝永年間には自信、富士山の降り砂、大水害等の為、伽藍が荒廃したが、約三十年を経た延享二年(一七四五年)、当山七世台前恵鏡大和尚の時、特に名主である田代家六代目田代真綱(中興開基基透田代綱居士)の寄進により復興を遂げた。
また江戸末期の嘉永二年(一八四九年)十八世仏山大超大和尚の時に現本堂が再建されている。
その後、大正十二年の関東大震災に最小限の被害で持ちこたえた本堂は、昭和二十九年に大修理が施され、草屋根も金葺屋根へと一新された。庫裡は昭和五十一年に新築され現在に至る。
境内地には江戸中期以降造立お庚申供養塔や戒壇石他多くの石仏類が建ち並び、当山及び周辺地域の歴史を偲ぶよすがとなっている。
尚、末寺として足柄峠直下に誓光寺(通称足柄地蔵堂)があるが、この寺の本尊地蔵菩薩(県重要文化財)は古来、小田原板橋並びに駿東郡竹ノ下の地蔵尊と共に、一木三体の造りの地蔵尊と言われ、正月、七月の二十三日を縁日として、遠近の信仰を集めている。(境内掲示より)
「南足柄市史」による江月院の縁起
矢倉沢村江月院
市域内で最も多い曹洞宗寺院についてみていくことにしよう。
江月院の開山は近世初頭であるが、当時のようすはあまり明らかでない。万治二年(一六五九)以前に矢倉沢村名主田代五郎左衛門が上畑八畝二八歩を同院に寄進(上地)している。
右の畑、八十七年以前万治二己亥年より前、五郎左衛門先祖二代目切山常無存生の時、俗名田代五郎左衛門秀綱と申し候節、右の畑江月院本尊並びに五郎左衛門先祖代々末々代々茶湯代として、右箇所を江月院様へ上げ置き申し候〔中略〕先祖五郎左衛門二代目に上地致し候は、明暦元乙未年中土地仕り候由〔後略〕
これは、田代五郎左衛門が明磨元年に先祖および末代の茶湯代として上畑八畝二八歩を江月院に寄付したことを記した部分である。彼は二代目五郎左衛門で、名を秀綱といい、前述の古義真言宗宝珠院も開闢したといわれている。(「南足柄市史」より)
新編相模國風土記稿による江月院の縁起
(矢倉澤村)
江月院
嶺松山と號す、曹洞宗、(足柄下郡板橋村香林寺末、)本尊正觀音、(長三尺二分行基作、)脇壇に薬師を置、(長七寸二分運慶作、)永禄三年の開建にて、開山は文察(本寺七世、慶長十七年七月二日寂す、)と云、
△衆寮
△白山社(新編相模國風土記稿より)
江月院の周辺図
参考資料
- 新編相模國風土記稿
- 「南足柄市史」