下鶴間諏訪神社。大和市下鶴間の神社

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

下鶴間諏訪神社。式内社高座郡石楯尾神社の論社

下鶴間諏訪神社の概要

下鶴間諏訪神社は、大和市下鶴間にある神社です。下鶴間諏訪神社の創建年代は不詳ですが、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている高座郡石楯尾神社が当社に比定されるのではないかといいます。昭和15年村社に列格していました。

下鶴間諏訪神社
下鶴間諏訪神社の概要
社号 諏訪神社
祭神 建御名方神
相殿 -
境内社 稲荷神社、八坂神社、秋葉神社
祭日 -
住所 大和市下鶴間2540
備考 旧村社



下鶴間諏訪神社の由緒

下鶴間諏訪神社の創建年代は不詳ですが、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている高座郡石楯尾神社が当社に比定されるのではないかといいます。江戸期には、下鶴間村の鎮守社となっており、昭和15年村社に列格していました。

新編相模国風土記稿による下鶴間諏訪神社の由緒

(下鶴間村)諏訪社
村の鎮守なり、例祭七月廿日、延宝八年・宝永八年の再建の棟札あり。式内石楯尾神社なりと傳ふ。ことは座間入谷村に辨ぜり。
末社。天王稲荷合社。
松樹、神木なり、囲一丈八尺。(新編相模国風土記稿より)

境内掲示による下鶴間諏訪神社の由緒

当社の創立は不詳なるも、古来式内石楯尾神社なりと伝えられ新編相模風土記によれば文徳天皇天安元年(八五七年)五月祭祀のことあり。醍醐天皇延喜七年(九〇七年)の神名帳に高座小五座のうち下鶴間村に石楯尾社ありと。鎌倉中期の頃諏訪社として祀られたものと考えられ延宝八年(一六八〇年)再建の棟札ありし趣によって徳川氏入国当時既に厳然と鎮座せしこと明かなり。なお元禄六年(一六九三年)六月領主江原氏代官井沢喜兵衛同都筑氏代官瀬沼伝右衛門本地を寄進し御神体として本殿に奉安せりと。宝永八年(一七一〇年)六月再建、安永七年(一七七八年)再建の棟札現存す。更に安政五年(一八五八年)十一月六日社殿完成間近に土人の失火により社殿悉く焼失せり。明治二年神仏分離令により、観音寺持より村持となり、氏子の熱意により明治五年社殿を再建遷宮の祭典を盛大に挙げた。明治三十年秋期大演習の際、伏見宮貞愛親王殿下、祭神の大軍神なるを聞し召され御参拝さる。
大正十二年関東大震災により大被害受けたが昭和四年復旧工事が完了する。更に昭和九年九月朝香宮鳩彦王殿下演習統監のため当地を御通過の砌り鄭重に御参拝される。昭和十五年村社に昇格、大東亜戦争勃発するに及び社名を諏訪神社と変更、社運益々隆昌せしが終戦を迎えるに至り、昭和二十一年国教分離令により宗教法人諏訪神社となる。(境内掲示より)


下鶴間諏訪神社所蔵の文化財

  • 諏訪神社御神像(大和市指定重要文化財)
  • 諏訪神社北辰一刀流奉納額(大和市指定重要文化財)

諏訪神社御神像

木造の男神立像で、太刀を腰にさし、右手に扇状の持ち物をもっています。製作方法は寄木造りで、目は玉眼嵌入、頭部と両手首先は差込みで、全体に彩色が施されています。胴部の内刳はきわめて深く造られています。製作年代を印したものはありませんが、面部の作風からは下福田の若宮八幡宮の応神天皇座像(一七四六年造)に通いあうものがあり、十八世紀前半頃の像と推定されます。また由緒書によれば、元禄六年(一六九三)六月に領主江原氏代官石沢喜兵衛・領主都筑氏代官瀬沼伝右衛門が神像を寄進し、御神体として本殿に安置したと伝えていますので、この頃の像であろうと推定されます。
なお、下鶴間村は三人の領主により支配されていましたが、もう一人は松平氏であり、共に将軍の直属家臣団であり、御目見得できる旗本でした。(大和市教育委員会掲示より)

諏訪神社北辰一刀流奉納額

江戸時代後期に成立した剣道の四つの新興流派(北辰一刀流・鏡心明智流・無刀流・天然理心流)の分布が、額面に記載された奉納関係者一覧によって把握することができるものです。
四つの流派ですが、北辰一刀流は幕末の三剣士といわれた著名な千葉周作を流祖とし、幕末に最もはやった流派です。鏡心明智流は桃井直由が流祖ですが、二代目桃井春蔵直一が有名で、千葉周作・斎藤弥九郎と共に三剣士の一人です。無刀流は山岡鉄舟が流祖で、鉄舟ははじめ千葉周作に北辰一刀流を学び、のち無刀流を開きました。天然理心流は近藤内蔵之助長裕が流祖で、四代目は新撰組隊長の近藤勇です。三多摩を中心として県内では特に県央以北に流行しました。
天然理心流に対して、北辰一刀流や無心流、特に鏡心明智流などはどの程度分布していたかわかっていないのが現状ですので、この奉納額は市域のみならず、県域の歴史を知る上で、貴重な歴史資料と考えられます。(大和市教育委員会掲示より)


下鶴間諏訪神社の周辺図


大きな地図で見る