公所浅間神社。大和市下鶴間の神社

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

公所浅間神社。式内社高座郡石楯尾神社の論社

公所浅間神社の概要

公所浅間神社は、大和市下鶴間にある神社です。公公所浅間神社の創建年代等は不詳ながら、源頼朝が創建したともいわれ、相模八十一社の巡拝所の一つとして鶴間総鎮守として祀られていたと伝えられます。江戸期には浅間社と称し下鶴間村の鎮守として祀られ、昭和19年には神饌幣帛料供進神社に指定され、子之神社・住吉神社を合祀しました。国道十六号線大和バイパス新設の影響により、昭和49年に下鶴間1437(現つきみ野8-14)より当地へ遷座しています。

公所浅間神社
公所浅間神社の概要
社号 浅間神社
祭神 木花咲耶姫命
相殿 大己貴命、表筒男命
境内社 古峯神社、秋葉神社、弁財天
祭日 9月15日
住所 大和市下鶴間391
備考 旧村社



公所浅間神社の由緒

公所浅間神社の創建年代等は不詳ながら、源頼朝が創建したともいわれ、相模八十一社の巡拝所の一つとして鶴間総鎮守として祀られていたと伝えられます。江戸期には浅間社と称し下鶴間村の鎮守として祀られ、昭和19年には神饌幣帛料供進神社に指定され、子之神社・住吉神社を合祀しました。国道十六号線大和バイパス新設の影響により、昭和49年に下鶴間1437(現つきみ野8-14)より当地へ遷座しています。

神奈川県神社名鑑による公所浅間神社の由緒

創立年代不詳であるが、源頼朝が創建したといわれる。『文亀神明録』に鶴間神社と登載され、相模八十一社の巡拝所の一つとして鶴間総鎮守であったと伝えられる。『相模風土記』によると貞享元年(一六八四)再建の棟札があると記されているが、現存のものは宝永四年(一七〇七)のものである。この棟札に「富士浅間大菩薩」とあるところから、この頃すでに浅間神社と呼ばれていたことがわかる。
戦国末期に長谷川角行が現われ富士講を広めたので、江戸を中心に浅間信仰が盛んになり、当神社の氏子も富士講を組織して例祭を六月朔日と定め、富士の山開きの日に行ったらしく、文久二年(一八六二)の村方絵図には、浅間神社に向う道路に「字富士山道」とあり、又、宝永四年(一七〇七)の富士山大噴火による降灰を集めて、富士を型どり塚を築造したと伝えられる。その後、年を経るままにしばしば回禄の災があって、社殿等空しく烏有に帰し、祭典も絶えがちになりほとんど荒廃するばかりになったが、大正十三年氏子の崇敬にわかに高まって、社殿を改築して御神徳の昂揚をはかった。昭和十九年一月四日、神饌幣帛料供進神社に昇格し、その時に村内の子之神社、住吉神社を合祀した。昭和二十八年八月、宗教法人・浅間神社として神社庁に登録する。
昭和四十八年に国道十六号線大和バイパスの新設により境内地を大幅に削られ、諸般の情勢にかんがみ氏子と相計って、神社百年の大計を確立のため移転造営を発願する。昭和四十九年九月十五日、造営に着手し、向五十年九月に竣工。同月十四日につきみ野八丁目一四番地(元下鶴間一四三七)より現在地に遷宮となる。(神奈川県神社名鑑より)

新編相模国風土記稿による公所浅間神社の由緒

(下鶴間村)
浅間社
村の鎮守とす、例祭六月朔日、貞享元年再建の棟札あり、觀音寺持下同じ。
松一株。神木なり、囲一丈八尺許。
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子権現社
小名公所の鎮守とす。神體石、長一尺三寸囲八寸許。
末社。稲荷。
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住吉社
これも公所の鎮守なり。
末社、第六天。(新編相模国風土記稿より)
 

公所浅間神社の周辺図