仏導寺。深見の領主旗本坂本家の菩提寺
仏導寺の概要
浄土宗寺院の仏導寺は、親縁山一心院と号します。仏導寺は、天文年間(1532-1555)に称念上人が開山となり創建したといいます。江戸時代には当地深見村の領主となっていた旗本坂本家の菩提寺となっていた他、慶安2年(1649)には寺領5石3斗の御朱印状を受領していたといいます。境内には、坂本家の墓、慶長年間の墓、徳本念仏塔、梵鐘があり、いずれも市重要文化財に指定されています。
山号 | 親縁山 |
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院号 | 一心院 |
寺号 | 仏導寺 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
住所 | 大和市深見3361 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
仏導寺の縁起
仏導寺は、天文年間(1532-1555)に称念上人が開山となり創建したといいます。江戸時代には当地深見村の領主となっていた旗本坂本家の菩提寺となっていた他、慶安2年(1649)には寺領5石3斗の御朱印状を受領していたといいます。
新編相模国風土記稿による仏導寺の縁起
(深見村)佛導寺
親縁山一心院と号す。浄土宗知恩院末、開山称誉、天文中草庵なりしを一寺に起立す。称誉は天文二十三年七月廿三日卒。寺領五石三斗慶安二年十月十七日賜ふ。本尊弥陀、運慶作木立像長六尺二寸。
鐘楼、元禄十一年鋳造の鐘なり。(新編相模国風土記稿より)
大和市教育委員会掲示による仏導寺の縁起
佛導寺は、寺伝によると天文年間(1532-1555)に称念上人が開山したといわれています。現在、本寺には大和市指定重要文化財が4件あります。坂本家の墓、梵鐘、慶長年間の墓、徳本念仏塔です。
坂本家は江戸時代の旗本であり、深見村を所領していました。坂本家の墓は3基あり、板碑型のもので、被葬者は4代坂本重安の弟の貞俊、3代貞吉、3代貞吉の夫人の3人です。4代坂本重安は村内にあった1200坪の屋敷から大坂の合戦の時に出陣したといわれています。梵鐘は元禄11年(1698)に江戸鋳物師、木村将監・木村三郎の手で製作された梵鐘で市内では最も古い梵鐘です。慶長年間の墓は慶長3年(1598)の銘が刻まれた墓で、板碑型の形式で、雄大な石碑です。市域を含む近隣地では石塔を建てて故人を供養するという行為は1600年頃はまだ少数であり、貴重です。1650年頃から急激に増加し、以降50年を経過しないうちに、石塔を建てて供養するという行為が定着したといいます。徳本念仏塔は文政元年(1818)に建立された石塔で、尖頭角柱型の形式です。(大和市教育委員会掲示より)
仏導寺所蔵の文化財
- 徳本念仏塔(大和市指定重要文化財)
- 慶長年間の墓(大和市指定重要文化財)
- 坂本家の墓(大和市指定重要文化財)
- 梵鐘(大和市指定重要文化財)
徳本念仏塔
徳本行者は宝暦八年(1758)に紀伊国(和歌山県)で生まれ、江戸に一行院を創設し、近隣から関東地方にかけて念仏を広めた浄土宗の僧侶です。この徳本行者に帰依した人々が建立したものが徳本念仏塔です。碑面には、行者独特の書体で「南無阿弥陀仏」と刻み込まれています。
この念仏塔は文政元年(1818)の造立ですが、文政元年といえば、徳本行者が相模国各地を巡錫した翌年にあたり、深見、瀬谷、鶴間などの二百余名を数える人々が造立銘に名を連ねており、当時の民衆の信仰の一端を知ることができます。なお、市内には上和田薬王院境内にもう一塔残されています。(大和市教育委員会掲示より)
仏導寺の周辺図