西叶神社。横須賀市西浦賀の神社

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

西叶神社。文覚上人が養和元年に大願成就の前兆を感じて勧請

西叶神社の概要

西叶神社は、横須賀市西浦賀にある神社です。西叶神社は、平家の横暴ぶりを憤った文覚上人が、上総国の鹿野山に参籠し修行、養和元年(1181)に大願成就の前兆を感じ、鹿野山の対岸にあたる当地に勧請、文治2年(1186)源氏再興の大願が叶ったところから、叶大明神と称するようになったといいます。爾来浦賀の鎮守社として崇敬を受け、明治40年神饌幣帛料共進神社に指定され、昭和12年郷社に列格していました。

西叶神社
西叶神社の概要
社号 叶神社
祭神 誉田別尊
相殿 比売大神、息長帯比売命
境内社 厳島神社、金刀比羅神社、老山福寿稲荷神社、三峯神社、大鳥神社、船守稲荷神社、阿波島神社、武雄神社
祭日 9月15日
住所 横須賀市西浦賀1-1-13
備考 旧郷社



西叶神社の由緒

西叶神社は、平家の横暴ぶりを憤った文覚上人が、上総国の鹿野山に参籠し修行、養和元年(1181)に大願成就の前兆を感じ、鹿野山の対岸にあたる当地に勧請、文治2年(1186)源氏再興の大願が叶ったところから、叶大明神と称するようになったといいます。爾来浦賀の鎮守社として崇敬を受け、明治40年神饌幣帛料共進神社に指定され、昭和12年郷社に列格していました。

神奈川県神社誌による西叶神社の由緒

当社は、養和元年(一一八一)文覚上人が山城国・石清水八幡宮より勧請し創建した事に始まる、。上人が源頼朝の為に源氏の再興を発願し、治承年間(一一七七~一一八一)上総国鹿野山に参篭して、遥に石清水八幡宮に祈念をし、本願が叶えられれば勝地を探し求めて八幡の一社を建立し、末長く祭祀を絶たざるべしと云う誓いをたてて断食苦行を重ね、養和元年(一一八一)大願上位珠の前兆を感得し、社殿建立の勝地を求め各地遍歴の末、浦賀の地に到り、遂に留まりて当社を創建したという。文治二年(一一八六)大願叶いたるを以て、神号を叶大明神と称するに至った。
以来、鎌倉時代より湊として開けた浦賀の鎮守として、地元の人々や浦賀港に出入りする人達の厚い信仰を得て来たが、殊に享保六年(一七二一)江戸幕府が浦賀に奉行所を設置してより、奉行職が相ついで当社に参詣し、厚く崇敬し、春秋両度の大祭には特に参向して幣物を捧げるのが常例となった。とりわけ寛政五年(一七九三)当時の奉行だった仙石次左衛門政寅(二千七百石、後に堺奉行に転任)は、当社等の諸記録を調査し、自らそれを扁額に撰して奉納して居る。天保八年(一八三七)浦賀の大火によって当社も炎上し、仙石政寅の奉納扁額も烏有に帰した。天保十三年(一八四二)再び社殿を造営し、嘉永五年(一八五二)、時の浦賀奉行浅野中務少輔長祚(三千五百石、後に京都町奉行に転任、画才に長けていた。書家文人としても有名)が、政寅の扁額の縁起文の副本があったので、謹写して当社に奉納した。現在社殿に掲げられている大きな扁額が即ちこれである。
神社に残る『天保十一年庚子歳四月吉祥日鎮守社再建造営控』に依れば、約三千両と言う支出が記録されている。とりわけ社殿には数々の彫刻が施されており、これには四百十一両銀三匁四歩五厘が支払われている。この彫刻の作者は、当時名工と謳われた安房国千倉の彫刻師・後藤利兵衛橘義光である。明治に入り叶大明神を叶神社と改称し、明治四十年神饌幣帛料共進神社に指定され、昭和十二年郷社に列した。(神奈川県神社誌より)

新編相模国風土記稿による西叶神社の由緒

(西浦賀)
叶明神社
總鎮守なり、祭神は應神天皇なり、寛政五年九月時の奉行仙石治左衛門政寅社傳を記して拝殿に掲ぐ、其記に據に養和元年文覺源家繁栄の祈禱として石清水八幡を爰に勧請す、平家西海に亡び所願成就せしかば文治二年今の神號に改しと云、本地佛阿彌陀、例祭九月十五日(東浦賀の同社と隔年に祀る)
末社。金毘羅秋葉稲荷合祠 粟島疱瘡神船玉合社 淺間天神稲荷 太神宮春日愛宕合祠 辨天 稲荷
別當感應院。虚空山西榮寺と號す、古義眞言宗(逗子村延命寺末)本尊不動又虚空蔵を安ず(長六寸)是古の本尊なり、【縁起】に據に養和元年文覺八幡を勧請の後當院を廻、此像を手刻して本尊とす、故に文覺を開山とす、寺邊を距ること數歩にして文覺畑或は虚空蔵屋鋪と唱る地あり、是當時の寺地なりと云。(新編相模国風土記稿より)

境内掲示による西叶神社の由緒

叶神社は養和元年(一一八一)文覚上人が京都の石清水八幡宮を勧請して造られました。
平家の横暴ぶりを憤った文覚上人は源頼朝と源氏再興を願い、上人自ら治承年間、上総の国の霊山である鹿野山に参籠し修行を重ね、その本願が叶ったならば神社を建立し末永く祭祀することを誓いました。そして養和元年に大願成就の前兆を観じて、勝地を求め各地を遍歴した末に、鹿野山に相対する浦賀西岸の現在地に、社宇を建立し、文治二年(一一八六)源氏再興の大願が叶ったところから、叶大明神と称するようになりました。
現在の社殿は天保十三年に再建されたもので、本殿、幣殿は総檜造りで、その内部は悉く彩色され、本殿柱は金箔朱塗り、内部の科長草木の彫刻はすべて極彩色となって居り、扉は黒仕立蝋色塗、内面は金箔押しと云う華麗な装飾がなされている。
拝殿は花鳥草木の透し彫りのある格天井となっており七十四面ほどある、社殿四方の周囲の外部多くにも彫刻が施されている。これらの優れた彫刻は、当時名工と謳われた彫刻師、後藤利兵衛橘義光の作品である。このように、当時の最高に近い建築の技術の枠と彫刻の美を備えた社殿造営の工事費は、三千両と云う莫大な金額であったと云われ現在、叶神社の彫刻は横須賀市市民文化資産に指定されています。
東西叶神社について
元禄五年(一六九二)、江戸幕府の行政政策により、浦賀は東西の浦賀村に別けられた。行政区分の分離は、それなりに各々の村意識を生じさせるのであって、総鎮守は西岸に所在していたから、長い間、その氏子として、叶神社の神徳を仰ぎ戴いてきたことにより、東岸にも今まで通り、同じ御神徳をと願う信仰心が、分霊祭祀となった。(境内掲示より)


西叶神社の周辺図