岩殿寺。逗子市久木にある曹洞宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

岩殿寺。伝行基菩薩創建、坂東三十三ヶ所観音靈場

岩殿寺の概要

曹洞宗寺院の岩殿寺は、海雲山護國院と号します。岩殿寺は、行基菩薩が養老年間(717-724)に開創、聖武天皇の勅願により下向した本願徳道上人(長谷寺開山)が開山したといいます。正暦元年(990)には花山法皇が来山し法要を営んだ他、承安4年(1174)には後白河法皇が来山、源頼朝・実朝からも篤く信仰されましたが、室町時代に荒廃、徳川家康が関東入国した際には、当地の代官となった長谷川七左衛門長綱により再建され、宗旨を曹洞宗に改めています。天正19年(1591)には寺領5石の御朱印状を受領していました。坂東三十三ヶ所の2番、関東百八地蔵霊場89番です。

岩殿寺
岩殿寺の概要
山号 海雲山
院号 護國院
寺号 岩殿寺
住所 逗子市久木5-7-11
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



岩殿寺の縁起

岩殿寺は、行基菩薩が養老年間(717-724)に開創、聖武天皇の勅願により下向した本願徳道上人(長谷寺開山)が開山したといいます。正暦元年(990)には花山法皇が来山し法要を営んだ他、承安4年(1174)には後白河法皇が来山、源頼朝・実朝からも篤く信仰されましたが、室町時代に荒廃、徳川家康が関東入国した際には、当地の代官となった長谷川七左衛門長綱により再建され、宗旨を曹洞宗に改めています。天正19年(1591)には寺領5石の御朱印状を受領していました。

境内石碑による岩殿寺の縁起

岩殿寺縁起
相州三浦郡久野谷郷(神奈川県逗子市久木)海前山岩殿寺(現在は海雲山となっている)の由来は皇統四十五代の聖武天皇の勅願による大和の国(奈良県)の長谷寺の開山本願徳道上人が、この地に下向されたときに始まる。
それゆえ、当山は徳上、行基両聖人の開基といわれている。また、大悲殿前から南海を見渡せるので、山を海前(現代は海雲山)と名付け岩窟が自然の殿堂のようであったので、寺を岩殿寺と号したといわれる。
正暦元年庚寅春三月十七日六十五代花山法皇が来山され、御自身導師となられて百僧法要御供養を営なまれた。従僧は仏眼上人、弁光僧正、良窓上人、元密上人、伝光僧都、満願上人、威光上人であった。
又、承安四年四月十八日七十七代後白河法皇が来山され、ここを坂東三十三ヶ所第二番の霊場とお定めになった。なお、源頼朝が蛭ヶ児島にいた頃、文覚上人の勧めで、当寺の本尊を厚く信仰し、夢に現れてお告げを被ることがしばしばあったという。戦乱の折、敗色濃くなってからも、大悲の冥助を幾度も得て、立直れたというが、なかでも石橋山敗軍のときは、観世音が船人となって頼朝を房州洲崎に渡し、たちまち十一面観世音の妙容をあらわして、三浦の方にとび去ったという。頼朝は御報恩のため御来印を下賜され、治世の間は欠かさず参拝されたという。文治三年正月二十三日には頼朝公の姫が参詣。建久二年子の三月には三浦義澄同六兵衛義村参詣。建久三年乙未の二月二十三日には頼朝公幕下参詣。建久三年乙卯の五月八日には御白河法皇四十九日の御仏事のため百僧集まり参詣。この折に南堂を補修する。承元三年五月五日には右大将実朝将軍参詣。寛喜二年十一月十一日、大破せる伽藍再建のため、大僧正院家竝び十三院の別当が日夜法要を修行され、そのとき、鎌倉殿の命に依り僧西願に勧進して堂宇を再建、三代名手三七日昼夜祈念したことが「東鑑」にも記されている。
しかし、その後また、ものかわり星うつりて七堂伽藍も荒廃し、寺院の面目もなかったものを東照神君(徳川家康)の御仁恵により境内ならびに田畑山林と御朱印を賜わり、その徳沢に潤い、天正十九年十一月には県令長谷川七衛門長綱が荘厳な堂宇を再建し、且つ申し請けて寺領五石の御朱印を賜ったという。(境内石碑より)

新編相模国風土記稿による岩殿寺の縁起

(久野谷村)
岩殿觀音堂
坂東札所第二番なり、行基の開基にして自作の像を安ぜしが後災に罹り今十一面觀音を置く(鎌倉英勝寺太田禅尼葬送の時造立せし六觀音の一なり、永一尺八寸)鎌倉将軍殊に信仰ありて、屡参詣せられし事【東鑑】に歴擧す(此地参詣の事のみにて其年次は煩しければ原文を注せず、)寛喜二年十一月僧西願勸進して堂宇を再建せし事同書に見ゆ(十一月十一日岩殿觀音堂居礎引地勸進上人西願云々)然るに年を逐て衰廢せしかば御入國の後縣令長谷川七左衛門長綱堂宇を再建し、且申請て堂領五石の御朱印を賜はる、是天正十九年十一月なり(其地小坪村にあり)本尊の戸帳は英勝寺より寄附する所なり(今も彼寺より修造を加ふ)
△熊野社。鎮守なり、社内に明暦二年の棟札あり、圖上の如し、
△神明宮。前の棟札に據ば明暦二年の起立なり、
△猿田彦社
△稲荷社
△札堂。十一面觀音を置く、
△岩窟。堂後にあり(方九尺、)奥院と稱す、石像觀音を置く、
△別當岩殿寺。海雲山(古は海前山と號す、長谷川長綱再建の後改むと云ふ)護國院と號す、曹洞宗(沼間村海寶院末、)開山行基養老六年六月十八日起立すと云、其頃は眞言宗なり、建久三年五月後白河法皇七十七日の御追福を鎌倉勝長壽院にて修せられし時當時の僧其列に加はる(【東鑑】曰、五月八日法皇四十九日、御佛事於南御堂被修之有百僧供岩殿寺二口、)其後頽廢せしを本寺三世一機中興す、此時今の宗派に改む、本尊釋迦を安ず、(新編相模国風土記稿より)


岩殿寺所蔵の文化財

  • 岩殿寺観音堂(逗子市指定重要文化財)

岩殿寺観音堂

岩殿寺は坂東三十三観音札所の第二番で、縁起によれば、養老年間(七一七-七ニ四)行基が開創し、花山法皇や後白河法皇も来山されたと伝えられる古刹です。また、鎌倉時代には将軍家の信仰が厚く、『吾妻鏡』には頼朝、政子、実朝らが参詣したと記されています。
現在の観音堂は、棟札によると享保十三年(一七二八)に時の住持萬英和尚が勧進により再建したもので、造営の大工は鎌倉の蔵並杢之助藤原政吉と工匠清右衛門でした。
桁行三間、梁間五間の寄棟造で比較的小規模なものですが、中世以来の伝統的な密教本堂形式をとりつつ、細部の構造は十八世紀前半の特徴をよく反映しています。
当堂は単に逗子市内の古建築であるだけでなく、鎌倉地方の近世建築の様式的展開を知る上で一基準となる重要な建築であると考えられます。
なお、昭和六十三年の修理工事により、茅葺から銅板葺となりました。(逗子市教育委員会掲示より)

岩殿寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿