海宝院。逗子市沼間にある曹洞宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

海宝院。逗子市指定重要文化財の四脚門

海宝院の概要

曹洞宗寺院の海宝院は、長谷山と号します。海宝院は、駿河保壽寺に隠棲していた之源臨乎和尚を開山に迎え、長谷川七左衛門長綱が良長院の地に創建しました。徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には寺領18石の御朱印状を受領、支源臨乎和尚の希望により慶長年間(1596-1615)当地へ移転しています。当寺四脚門は室町時代最末期頃の様式で、逗子市重要文化財に指定されています。三浦三十三観音霊場24番、三浦地蔵尊三十八霊場25番です。

海宝院
海宝院の概要
山号 長谷山
院号 海宝院
寺号 -
住所 逗子市沼間2-12-15
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



海宝院の縁起

海宝院は、駿河保壽寺に隠棲していた之源臨乎和尚を開山に迎え、長谷川七左衛門長綱が良長院の地に創建しました。徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には寺領18石の御朱印状を受領、支源臨乎和尚の希望により慶長年間(1596-1615)当地へ移転しています。

境内掲示による海宝院の縁起

海宝院(曹洞宗)
徳川家康の代官領・長谷川長綱が創建したお寺です。
当初は山門、本堂、鐘楼、回廊、庫裡、衆寮、書院、鎮守などが軒を連ねていました。寺の焼失再建もありましたが、表門(四脚門・市指定重要文化財)は当時からのものです。
寺には幾度かの戦いに使われたといわれる鐘があり、家康から拝領した陣鐘と伝えられています。(応永十年(一四〇三)の銘、県指定重要文化財)
長綱は家康の関東入府に従い、検地などを行ないました。江戸幕府成立後は代官領に任じられ、浦賀に陣屋を置き、江戸への海上物流などを管轄し、三浦半島の発展に貢献しました。
本堂の左手奥には、長綱を始めとする一族の方々の墓があります。
その昔、逗子村から金沢・浦郷村にいたる道は、海宝院を始めいくつかの寺の前を通ることから、「寺道」と呼ばれました。また、田越川の河口近くで陸揚げされた魚を馬で榎戸(追浜)に陸送する「魚荷道」でもありました。(逗子市・自然の回廊プロジェクト掲示より)

新編相模国風土記稿による海宝院の縁起

(沼間村)
海寶院
長谷山と號す、曹洞宗(駿州富士郡傳寶村保壽寺末)本尊十一面觀音開山支源は本寺二世の僧なり、退隠して駿洲に閑居す、後又當郡横須賀村良長院に移住しけるが當村の地は高敝にして富士山眺望の勝地たれば官に請て彼院を爰に引き今の院號に改む(後年舊地に一寺を建て良長院の古名を存す、今猶あり)時に縣令長谷川七左衛門長綱力を戮て堂舎を修飾す、故に長綱を開基とす山號は其家號に取れり、天正十九年十一月寺領十八石の御朱印を賜ふ支源曾て駿州の隠栖に菊數種を栽て楽みとす、其頃東照宮御獵の序入御ありて源を菊長老と召されしとぞ、其後文禄四年十一月二十一日寂せり、
△洪鐘。庫裡の樓上に掛く、武州多磨郡小野路村小野社の鐘なり、應永十年の序銘を鐫る長谷川長綱當寺に寄附すと云ふ(銘文曰、武蔵國小山田保小野路縣小野大明神宮鐘銘幷序、應永十年癸未冬、當縣居住奉三寶弟子正珍募縁、鑄鋸鐘朝夕扣撃、使夫往来之人晩宿早發知其時、何止證入圓通三昧亦復獲免道路之患難其施不亦博乎、乞銘お自快道人乃爲銘、銘曰、圓其外正虚其中剛有扣斯應、蕨聲孔揚無)(新編相模国風土記稿より)


海宝院所蔵の文化財

  • 四脚門(逗子市指定重要文化財)

四脚門

海宝院は徳川家康の代官長谷川七左衛門長綱が之源臨乎和尚を開山として創建した寺です。天正十九年(一五九一)十八石の御朱印を賜った旨、「相模国風土記」に記されています。初め横須賀にありましたが、慶長年間に現地に移されたようです。寛政二年(一七九〇)の火災の際も四脚門は焼けず創建当初のまま残っているものと思われます。茅葺で桁行三・一四m、梁行二・七八mの規模を持つ典型的な禅宗様四脚門の形式です。室町時代最末期頃の様式を色濃くとどめている点、貴重な作例と申せます。(逗子市教育委員会掲示より)

海宝院の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿