東昌寺。逗子市池子にある高野山真言宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

東昌寺。湘南七福神の福禄寿尊、三浦四十八箇所霊場

東昌寺の概要

高野山真言宗寺院の東昌寺は、青龍山と号します。東昌寺は、北条政子が実朝の菩提を弔うため阿弥陀如来像を奉安、阿弥陀堂と称されていたといいます。北依泰時が鎌倉葛西谷に東勝寺を建立、北條氏の祈願寺となっていましたが、北條氏滅亡に際して、一族郎党自害と共に焼失、東勝寺の名跡を阿弥陀堂が引き継いだといいます。明治維新まで池子神明社など池子地内の社の別当を勤めていました。境内の旧慶増院石造五輪塔は国重要文化財となっている他、阿弥陀如来坐像は市文化財に指定され三浦四十八箇所霊場となっています。東国八十八ヵ所霊場79番、湘南七福神の福禄寿尊です。

東昌寺
東昌寺の概要
山号 青龍山
院号 -
寺号 東昌寺
住所 逗子市池子2-8-33
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



東昌寺の縁起

東昌寺は、北条政子が実朝の菩提を弔うため阿弥陀如来像を奉安、阿弥陀堂と称されていたといいます。北依泰時が鎌倉葛西谷に東勝寺を建立、北條氏の祈願寺となっていましたが、北條氏滅亡に際して、一族郎党自害と共に焼失、当時の住僧信海和尚が当地に逃げ延びて阿弥陀堂地に東勝寺を再建したといいます。徳川家康が関東入国した翌年の天正19年には寺領2石の御朱印状を受領、江戸時代に入り、池子が英勝寺領となった際、東昌寺と改称、明治維新まで池子地内の諸社の別当を勤めていました。

新編相模国風土記稿による東昌寺の縁起

(池子村)
地名のみで地誌の記載なし (新編相模国風土記稿より)

境内掲示による東昌寺の縁起

東昌寺(真言宗)
東昌寺は、江戸時代、池子村が鎌倉の英勝寺の寺領であった以前から須加神社を始め、村内八ヶ所にあった神社・社の別当を勤めた、村の中心的存在でした。
享保十二年(一七ニ七)の火災により、本堂と共に阿弥陀堂も焼失しましたが、英勝寺や村の内外の人々の寄進によって本堂、山門、庫裡と順次再建され、宝暦五~八年(一七五八)にかけて阿弥陀堂と消失した阿弥陀如来坐像も再建されました。
丈六の木造阿弥陀如来坐像は(像高二・六m、市指定重要文化財)は、三浦半島で最大の木造の尊像です。
境内の五輪塔は、「紗弥(二階堂)行者帰寂乾元二年(一三〇三)七月八日」と、亡くなった人の名と年代が具体的に刻された、鎌倉時代末期の優美な安山岩製石塔で、国の重要文化財になっています。
湘南七福神(福禄寿尊)のお寺で、春にはサクラ、初夏にはアジサイが咲き誇ります。
因みに逗子開成学園は明治三十六年(一九〇三)東京開成中学校の分校としてここで開校されました。(逗子市・自然の回廊プロジェクト掲示より)

「逗子町誌」による東昌寺の縁起

東昌寺
古刹にして山門に「三浦四十八箇所札所第一靈場」「丈六阿彌陀如来尊像 運慶作」「夢想示現虫封觀世音菩薩尊像」と掲げられ、大正十二年の震災に本堂倒潰、被害多かりしも其由緒明かなり。
寺傳。鎌倉葛ヶ谷東勝寺に於て北條高時始め大小二百八十三人居並ぶ兵者八百七十餘人、東勝寺に火を掛け焼亡せし時、當時の住僧信海和尚本尊大日如来(平家亡靈成佛の爲め賴朝の命を受け全眞和尚之を作る)の尊體を守護し池子に逃来し本寺を建立して東勝寺と稱す、故に當寺は信海和尚を以て開基とすれども寧ろ鎌倉葛ヶ谷東勝寺の移轉せしものと考ふるを至當とす。
然るに徳川時代に入り當池子が鎌倉英勝寺領となるや、水戸家の憚りて東勝寺の勝を何時しか東昌寺と昌の字に改めたり仍て當寺の古書には全部東勝寺と書す。
天正十九年御朱印寺領二石、青龍山と號す。
(中略)
阿彌陀堂。三間半に三間四尺、東昌寺境内に在り
三浦七阿彌陀の内第一番、丈六彌陀如来、木像を安置す、永久三年平政子、實朝の薨去を悲み阿彌陀佛の尊像を運慶に調工せしめ當村阿彌陀ヶ谷に建立し、後東昌寺境内に移せり。
(寺蔵古書)往昔當村の内上之谷に御座候處寛永年中に御領主英勝寺様より當寺内へ御引移堂建立御再興等被爲遊候、然る處享保十二年出火阿彌陀如来共焼失仕候、其後寶暦五年鎌倉扇ヶ谷佛師三橋宮内如古来建立成就仕り候。(「逗子町誌」より)

「逗子市史別編民俗編」による東昌寺の縁起

境内阿弥陀堂に安置される阿弥陀如来像は(江戸時代)、その昔、北条政子が実朝の菩提を弔うため将監谷に堂を作り、運慶に造立させたとの伝説を有する。三浦四十八箇所第一霊場として参詣者が多い。(「逗子市史別編民俗編」より)


東昌寺所蔵の文化財

  • 東昌寺阿弥陀如来坐像(逗子市指定重要文化財)
  • 旧(葉山)慶増院石造五輪塔(国重要文化財)

東昌寺木造阿弥陀三尊立像

青竜山東昌寺は真言宗のお寺でもと鎌倉葛西ヶ谷にあった東勝寺の歴史を受けついだ古刹であると伝えています。
境内の阿弥陀堂にまつられている木造阿弥陀如来坐像は、高さが2.5m余の大きなお像で、昔からあった古い像が享保十二年(1722)焼失したものを再興、宝暦八年(1757)十月に完成供養が行われました。
作者は鎌倉扇ヶ谷の仏師三橋宮内忠之です。江戸時代の作品ですが、逗子では珍しい巨像の上、造立の時期や作者も明確で貴重な仏像として市の重要文化財に指定されています。(逗子市教育委員会掲示より)

東昌寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿
  • 「逗子町誌」
  • 「逗子市史別編民俗編」