正覚寺。浄土宗第3祖記主禅師開山
正覚寺の概要
浄土宗寺院の正覚寺は、住吉山悟眞院と号します。正覚寺は、浄土宗第3祖記主禅師然阿良忠が仁治元年(1240)に当地の岩窟に閑居し開山、戦争により一旦廃寺状態となったものの鎌倉光明寺18世眞蓮社快譽が天文十年(1541)に再興、江戸期には尾張徳川家からの寄納を受けていたといいます。
山号 | 住吉山 |
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院号 | 悟眞院 |
寺号 | 正覚寺 |
住所 | 逗子市小坪5-12-2 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
正覚寺の縁起
正覚寺は、浄土宗第3祖記主禅師然阿良忠が仁治元年(1240)に当地の岩窟に閑居し開山、戦争により一旦廃寺状態となったものの鎌倉光明寺18世眞蓮社快譽が天文十年(1541)に再興、江戸期には尾張徳川家からの寄納を受けていたといいます。
新編相模国風土記稿による正覚寺の縁起
(小坪村)
正覺寺
住吉山悟眞院と號す、浄土宗(鎌倉光明寺末)記主禅師駐錫の舊跡なり(師の閑居せし岩窟今に境内にあり、)其頃は悟眞寺と云へり、(【高僧傳】曰、鎌倉光明寺開山釋良忠字然阿、仁治元年相模之鎌倉住住吉谷悟眞寺勸唱念佛、平經時於佐介谷建蓮華寺延爲開山祖、後革寺額以光明寺、)今師を以て開山とし其肖像を客殿に置く、一旦戰争に逢て廢寺となり、後天文十年光明寺十八世眞蓮社快譽再興す(快譽は天文十五年二月三日寂す、按ずるに、快譽正覺寺の號を授けしなるべし、)本尊阿彌陀は尾張宗春卿の側室民部女の念持佛にて享保中寄納あり(寺傳に尾張中納言宗春卿の側室民部病に罹りし時、寺主報譽が祈誓により平癒ありければ、民部悦の餘り望めるものを賽すべしと云ふに報譽本尊安置の志願を述ければやがて此像を寄附し、享保二十年五月七日入佛の式ありしと云、)又尾州家の三位牌を置かれ(一は凛霜院殿幼譽知光赫然大童女、一は秋感院殿霜月珠光大童女、一は圓徳院殿俊譽覺法了性大童子、共に享保元文中の早世なり、尾張家譜を按ずるに此三子は中納言宗春卿の御子、母は尾張山中長四郎某が伯母民部なり、)御紋付の仏具等を寄附せらる。
【寺寶】
△三尊来迎佛畫像二幅。一は惠心筆當寺十五世玄了寄附、一は筆者詳ならず、尾州より寄附と云ふ、
△住吉明神社
寺後山上に在り(康安二年文書に小坪住吉神田一段幷に畑一枚と見ゆ、)神體は故ありて嚢に鶴岡の末社に移し、當社には今白幣を神體とし本地佛正觀音を安ず、小名飯島の鎮守なり、古は郡中の總鎮守なりしと云ふ、此地三浦道寸の城跡なり(事は城跡の條に詳なり)
△觀音堂。正觀音なり、又地蔵を置く、
△古松。數珠掛松と呼ぶ相傳へて記主禅師(或は賴朝とも云ふ)數珠を掛し故なりと云ふ、今も里民住吉社に参詣する者此松に數珠を掛く、
△然阿洞。廣方二間許、寺傳に記主禅師洞中に籠居し傳通記を書寫せしと云、然阿は師の字なり、 (新編相模国風土記稿より)
正覚寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿